国家は生物の個体に比すべきもので、個々人は細胞のようなものだ、と考えている人もいるに違いない。しかし、これは明らかに間違いである。
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国家は道具である、などと主張すると怒る人がいるかもしれない。日本が滅んだら、日本人の大部分は困るのだから、個々の日本人よりも、やっぱり日本という国家の方が大事だろう、と思っているのかもしれない。そう思っている人がいることは否定しない。この人の頭の中には国家という実在感がはりついているのだろう。もしかしたら、国家は実体だと思っているのかもしれない。
中には国家は生物の個体に比すべきもので、個々人は細胞のようなものだ、と考えている人もいるに違いない。しかし、これは明らかに間違いである。生物の個体が死んだら、個体を構成している細胞は生きていけない。細胞培養をすればシャーレの中で生きていけるけれど、単細胞生物と違って自力では生きていけないことは明らかだ。個人は国家が消滅しても、そのことだけで死んでしまうことはあり得ない。個体の生存のために、細胞は死を余儀なくされることも多い。。たとえば、生物がちゃんとした形を作り出すためには、アポトーシスと呼ばれる細胞のプログラム死が必要不可欠だし、個体がウイルスに感染されれば、ウイルスが侵入した細胞は容赦なく殺される。そうしなければ、個体が死んでしまうからだ。我々は自分の生存のために、自分を構成する細胞が少々死んでも当然だと思っている。
国家を至上とする立場からは、個々人もまた、個人にとっての細胞のように、国家存続のために、必要とあれば死ぬものは仕方がないと考えろということなのであろう。これは一見、筋が通ったお話のように感ぜられるかもしれないが、実はとんでもないウソなのである。生物の系列にとって最高次の存在は個体なのであって、細胞も社会も、個体の生存のための道具なのである。高等生物ではとくに人間いおいては、個体は意識を持つし、自由意志を持つ。細胞は意識を持たない。社会も国家もそれ自体としては意識も意見も持っていない。
国家の意見とか意志とか称するものは、結局の所、誰か個人の意見か、様々な個人の意見を調整した妥協の産物なのである。専制君主が、「朕は国家である」とうそぶいている国家とは、専制君主の私有物であって、国民は奴隷である。この場合、国家というのは一個人の所有物のことであって、個々人を要素とする全体などではないから、個人より国家が大事という話は大ウソであることはすぐわかる。
−−池田清彦「国家は道具である」、『他人と深く関わらずに生きるには』新潮文庫、平成十八年、120−122頁。
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生物の「有機体」としての側面に注目して共同体をそのアナロジーとして位置づけようとした試みは、ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel,1770−1831)においてひとつの完成をみるわけですが、「有機体」としての全体に何をどう配置するのかという時点で決定的に共同体=有機体「観」というのは破産してしまうのは、これまた数々の論者によって指摘されている議論です。
ちなみに、私の研究対象の吉野作造(1878−1933)も大学院時代にヘーゲルの国家観をその演習題目として取り上げ、日露戦争前後なんかはこの有機体説を採用して、ルソー(Jean-Jacques Rousseau, 1712−1778)の一般理性に馴致される体制を賛美した側面もあるのですが、それが徐々に相対化・水平化されていくのがそのナショナリズムの言説。
しかし、さすが構造主義生物学者の言説!!!
「中には国家は生物の個体に比すべきもので、個々人は細胞のようなものだ、と考えている人もいるに違いない。しかし、これは明らかに間違いである。生物の個体が死んだら、個体を構成している細胞は生きていけない」。
あざやかですねぃ。
国家・組織を形成する一人一人は「細胞」だから、、、
「犠牲になってもいたしかたなし」
「黙って言うことをきいていればいいんじゃイ」
……って言い方が殆ど意味をなしていないって話ですねぇw
⇒ ココログ版 国家は生物の個体に比すべきもので、個々人は細胞のようなものだ、と考えている人もいるに違いない。しかし、これは明らかに間違いである。: Essais d'herméneutique