覚え書:「2011 東京フィルメックス (5)『無人地帯』藤原敏史監督インタビュー(齋藤敦子)、河北新報社 2011/11/29」






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覚え書:「2011 東京フィルメックス (5)『無人地帯』藤原敏史監督インタビュー(齋藤敦子)、河北新報社 2011/11/29」

―『無人地帯』は、単なる震災やフクシマの問題を越えた、人間とは何か、世界のあり方とは何かというところまで見通した映画でした。まず、最初に福島に行こうと思い立ったのは、どのあたりでしたか?
藤原:2009年くらいから大阪で撮っていた映画があって、2年、3年やっているのに、どうにもうまくいかない。どうしようかと悩んでいるときに震災が起きたんです。2009年というのは夏に民主党への政権交代があり、その後、新しい日本になるかと思ったら、むしろ政権が変わったことも含めてそのことを恐れるような風潮になっていった。そのことに強い違和感を感じていたんです。それが、震災が起こって、それってこういうことだったのかと見えてきたことがあった。とはいえ、お金もないし、それだけで福島に行く気にはならなかった。被災地に撮影に行くにはいろいろと考えなければならないことがある。特に物資が止まっていた時期なので、我々が行くことが迷惑をかけることになってしまう。それもあって4月の半ばまでは動かなかった。ところが、報道のあり方に、僕が感じていたおかしさが露骨に出てきた。にもかかわらず、映っていた被災地の人々が、あまりにも美しかった。あれは気仙沼だったか、小学校の男の子がテレビの生中継で、レポーターに今何が欲しいかと聞かれて、まだ電気が来てなくて、お年寄りが夜寒いから、電気と灯油が欲しいと言ったんです。小学校の5年生くらいの男の子がすごくしっかりした答をして、その瞬間、レポーターの方が衝撃を受けて崩れ落ちてしまった。その様子を見て、これは違うのではないか、と思ったこと。もう1つは、3月12日から考えていたことで、原発事故が起きて避難命令が出たときに、あの地域でも津波の被害があり、瓦礫の下で救助を待っている人達は当然いるはずなのに、そのことをマスコミがほとんど話題にしなかった。政府批判はすごく出たけど、官邸記者会見なり、ネットなりで、疑問を呈する人が誰もいない。そのときから、あまりにも避難させられた人達が無視されている、と思ったんです。

―では行ってみようと背中を押したものは?
藤原:ロフトプラスワンというのをやっている平野悠さんという人が、"金がない奴には10万円貸してやる"というようなことをツイッターで流していて、それでお金を貰えて、だったら行けると。カメラの加藤孝信に声を掛けたら、行くということで。

―行くと決めた時点で、映画に撮ろうという意志があった?
藤原:できるかどうかはわからないけど、我々が行く限りは作品にしなければいけないと。

―実際に行ってみた第一印象は?
藤原:郡山インターを降りて、三春の方から入っていったんですが、山の方から入っていくと景色がきれいなんです。ちょうど春になったばかりで、桜が咲いている。正直な感想は、黒澤明さんの『夢』の"狐の嫁入り"の風景そのままだった。オープニング・クレジットが終わると、次に出てくるのが玉の湯温泉の満開の桜で、大熊町の山の奥なんですけど、そこが一番最初に撮ったところです。20Km圏内であっても、地元の人には放射能によって死の町になる、みたいなイメージではないし、そこをきちっと撮っておかないとと思って。それに、そういうのが見えると、映画を見る人も多少考え方が変わるだろうと。

―女性の英語によるナレーションには、クリス・マルケルの『サン・ソレイユ』に似た感じも受けたんですが、あれは、いつ頃から考えていたんですか?
藤原:飯舘村を撮ったときあたりから、これはナレーションを使うべきだろうなと考えていました。5月の末ですね。日本人自身が語ることが出来なくなっている日本人的なもの、本来の農民の国として考え方というのは、逆に英語で語る方が論理的にクリアになるのではないか。最初はフランス語だったんですが、外国語でどういう風に言えるのかというのを自分で試してみたかった。ある種、抽象化できるし、世界的な問題でもある。

―意外に早い段階ですね。構想しながら撮っていったんですか?
藤原:飯舘村を撮ったときは完全に構想しながら撮っていました。飯舘村で一番最後に撮ったのが、映画の最後に出てくる弘法大師が彫ったと言われている十三仏で、あれを撮ったときに、これで映画の構想が分かったと思いました。もともと、下に十三仏の案内板があるので知っていたんですが、てっきり石仏だと思っていたんです。村の人にインタビューすると、飯舘村の場合は避難するまで時間があったので、皆さん、お祭りやお墓参りをちゃんとやってから出て行くというような話をされる。村の重要文化財だし、ちゃんと撮っておこうと思って行ってみたら、岩があるだけで、何だろうと思った。

―線彫りみたいな仏様でしたね。
藤原:遠くからは見えないが近くに行ったら見える。"見えること、見えないこと"というテーマがまさにこれだと。ナレーションについては紆余曲折があって、最初CNC(国立映画センター、映画の支援を行うフランスの公的機関)に申請するためのシノプシスでは、ほとんどフィクションの物語構造で、それはフランス人の女性が僕とやりとりをしていて、2人が映像を見て何を考えるかということだった。

―まるっきり『サン・ソレイユ』みたいですね。その時点で、すでに遠くから見た視点と、近くにある実際のものとの距離感を考えながら撮っていったと。
藤原:僕自身、福島県、特に浜通りなどはこの事故以前には行ったことがなくて、子供の頃に親に磐梯山に連れていかれたくらいで、会津の方にしか行ったことがなかったので、そういう意味ではよそ者なんです。

―地元の人が驚くほど快く出演してくれていますね。
藤原:2回だけ、インタビューは嫌だ、撮影されたくないという人達に会いました。1度はいわき市の四倉漁港で、地元の漁師さんが"インタビューはたくさんだ"と言いながらも、3人で30分くらい話をしてくれたんです。録音はしてたんだけど、残念ながら風がひどくて映画には使えませんでした。

―被災した家を撮ることに関してためらいはなかった?
藤原:撮ると決めてましたから。そこが演出とカメラマンを別にする利点で、演出は撮れというだけで自分は撮らないで済む。だからカメラマンは辛かったと思います。

―最初の映像が、津波で残った木で、そこからずっとカメラがパンしていく。あのオープニングは最初から考えていたんですか?
藤原:あれは撮ったときに、これはファーストショットだと思いました。

原発が外から見えないという指摘も驚きでした。私達が報道で見ていた原発は海側から撮っているからよく見えるけど、内陸側からは見えない。外から見えないように隠すというのは日本的な感性で、まさに東電が作り上げていった世界がそれだったことに素直に驚きました。
 撮影のときに一番苦労したのは?
藤原:運転ですね。僕が演出と運転を担当したんですが、みんな避難しているから道路がほとんど直していないんです。夜遅くまで撮影していると、部分的に電気が通ってはいても街灯そのものがほとんどないから、真っ暗な道を走っていて、気がつくとマンホールがぼこっと持ち上がってたりする。

―スピードが出ていると危ないですよね。楽しかったというと言い過ぎかもしれないですけど、よかったことは?
藤原:全体的に撮影は楽しかったです。会う人会う人、みんな面白い方ばかりで。飯舘村で、"お前達にインタビューされても何の得にもならない"と言いながら、喋り続けたおじさんもいます。映画の中には使ってないんだけど、最初に行ったときに峠道で会って、ここから原発が見えると教えてくれた人がいて、その人が言ったのが映画で使った「おたまじゃくしと画面ばかり見ていても、何にもわかんないだろ」という言葉だったんです。おたまじゃくしって何だろうと思ったら、パソコンのマウスのことだった。最後の方で、茂原さんという方のお宅の茶の間まであがって話を聞いたときも、もの凄く楽しかった。

―もう少しで百歳になるおばあちゃんがいるお宅ですね。あの方達も今はみんな避難されて?
藤原:今は川俣町にいて、一軒家を借りられたそうです。この間、電話もらったら、お元気で、でも、おばあちゃんを東京に連れていくのは無理だから(上映には行けない)と。

―これからあの村は何年も無人地帯になる。とすると、何年か後に『無人地帯2』を作らなければならないのでは?
藤原:ある意味、まだ入口をやっただけだし、今後どうなっていくかは誰かがやらなきゃならない。今回の映画では、まだ抽象的に出ているだけの社会の大きな矛盾というのは、今後、具体的な形でどんどん出てくるし、今8か月たったところでも出てきてしまっている。そこをどうするかですよね。
 映画の最後でアルシネ・カーンジャンに言ってもらったんだけど、結局それはキリスト教的世界観のせいかもしれない。もともと日本人は、荒ぶる神には黙って耐えるしかないというような発想だったのに、神様は人間のために世界を作ったみたいな発想を安易に受け入れてしまっている。そのこと自体が間違っているのではないか。

―人間は自然に対して何をやってもいいというような?
藤原:それは土本典昭監督と一緒に水俣に行ったときに、そういう話を緒方正人さんとか言うわけですよ、我々の今の物質文明をどう意味論的に越えていくのかと。今まったく緒方さんが言った通りのことになっている。電気という問題にしたって、これだけ大量に電気を消費する社会がそもそも人間にとって幸福なのかというと、そのこと自体が大きな疑問であったりする。
 土本典昭監督の映画をやったときに面白かったのが、わりと歳を取った人の方が素直に見てくれることです。特に60歳を過ぎた女性、最後に出てくる茂原さんなんか、僕以上に物の考え方をわかっていると思う。残念ながら、まだ男が強い社会の中で、あまり大きな声では言えないと思ってらっしゃるみたいだけど。

―いえいえ、60歳を過ぎた女性は意外に強いですよ。
                  (11月26日、朝日ホールにて)
(齋藤敦子)
    −−「2011 東京フィルメックス(5)「無人地帯」藤原敏史監督インタビュー 齋藤敦子」、『河北新報』2011年11月29日。

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河北新報/(5)「無人地帯」藤原敏史監督インタビュー - シネマに包まれて-映画祭報告


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