偽りの楽天主義、人間の性質についての浅薄な楽観主義の幻想や、虚偽の理想主義






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 ぼくは、ニーバーの哲学のなかに不満なところをたくさん見いだしたけれど、それでも彼がぼくの思想をつくりあげてゆく上に積極的に影響した点は二つや三つにはとどまらなかった。ニーバーが現代の神学に及ぼした偉大な貢献は、彼が大陸の神学者カール・バルト〔一八八六生、現代スイスの神学者弁証法、神学のももっとも有力な代表者〕の反合理主義や、そのほかの弁証法神学者たちの半ファンダメンタリズムアメリカのプロテスタントの内部に第一次大戦後におこった思想で、聖書に記されている創造説や奇蹟やキリストの復活などを文字通りに信ずることをキリスト教信仰の基本でえあると唱えた〕におちいることなしに、プロテスタント自由主義の偉大な流れの特徴をなしている偽りの楽天主義をしりぞけた点にある。そればかりではなく、ニーバーは、人間の性質−−とくに民族や社会的集団の態度にたいしてなみなみならぬ洞察を示しているし、人間を行動にかりたてる動機や道徳と力の関係の複雑さをするどく意識している。彼の神学は、人間存在の一切の面に罪が存在することをたえず思いださせる。ニーバーの思想のなかのこうした点は、ぼくが、人間の性質についての浅薄な楽観主義の幻想や、虚偽の理想主義の危険をみとめることを助けてくれた。ぼくは依然として人間の善への可能性を信じてはいるけれど、ニーバーは、人間の悪への可能性をもさとらせてくれた。その上、ニーバーは、ぼくが人間の社会的環境の複雑さと集団的な悪の目くるめくばかりの現実性をみとめることを助けてくれたのだ。
 多くの平和主義者たちはこの点を見おとしている、とぼくは感じた。あまりにもたくさんの人たちが、人間に関して、なんら保証されておらぬ楽観主義をいだき、無意識のうちに自己の正しさにたよっていた。ぼくが平和主義につよく傾きながらも決して平和主義団体に加わらなかったのは、ニーバーの影響の下でこうした態度に反抗したからだ。ニーバーをよんでのち、ぼくは現実的平和主義に達しようとこころみた。いいかえるならば、ぼくは、平和主義者の立場を罪なきものとは考えないで、一定の環境のなかでほかの人たちほど悪くはないものと考えるようになった。
    −−M.L.キング(雪山慶正訳)「非暴力への遍歴」、『自由への大いなる歩み −非暴力で闘った黒人たち−』岩波新書、1959年、117−119頁。

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月曜の講義では、非暴力主義の問題を事例に従ってポイントとなる概要だけを紹介したのですが、結局、ガンジー(Mohandas Karamchand Gandhi,1869−1948)の場合もそうですし、キング(Martin Luther King, Jr.,1929−1968)の場合もそうですが、「人間」という存在をどのように見ていくのか……という立脚点をしっかり押させておかないとまずいし、人は容易にイズムの問題に陥ってしまうことがわかる。

二人に共通しているのはやはり、イズムの問題に対して無自覚となるのではなく、自覚的に向き合い、そしてそこから積極的に挑戦していったからこそ、その「運動」が「主義」に陥らずに、成功したのだろうと思う。

例えば、平和構築を目指して尽力することは大事だし、尊い営みだと思う。
しかし、平和を妨げる人間だけが問題であり、それを指摘する人間だけが善なるものを独占するという二項対立を温存させたままでは、理想的なるものと、この世の現実は引き裂かれたままになってしまう。

合理性に対する非合理の宣揚や近代性に対するストレートな反動といった脊髄反射を選択しないためには、まず人間自体を眼差した上での選択が必要なはずだ。

ガンジーの場合は、悠久なるインドの大地からそれを学んだわけだが、キングはそれをプロテスタント神学者・ニーバー(Reinhold Niebuhr,1892−1971)から学んだという。

これは実に、意外だった。

しかし、ボンヘッファー(Dietrich Bonhoeffer,1906−1945)の元で学んだことがあるからこそ、「社会派」であることは、より立ち位置を自覚した上での積極性が必要となると見れなくもない。

人間は「神の似姿」をもつ存在としてはたしかに「善」の一端を内在していると理解することも可能だが、「罪人」としての側面も同時に内在している。もちろんどちらを強調すかということだし、勿論、これは相即概念だから、相互批判がうまく機能することによって人間に創造性を与えるものなんだけど、往々にして、どちから一方を極端に強調して問題に向き合うことが多いのが現実だろう。

そして特に「何かを指摘」するとき、一方が完全にスルーされてしまうことが多い。

社会的な問題や人間の負の側面をきちんと指摘し、それを組み立て直していくことは必要だ。しかしそれは自分の「外」に存在するとのみ「眼差し」てしまうことは別の問題だ。しかし人はたやすくそれを選択する。

そして「偽りの楽天主義」、「人間の性質についての浅薄な楽観主義の幻想」といったものはたやすく魔女狩りへと転じてしまう。換言すれば「理想」実現を目指しているもののその実「虚偽の理想主義」へと転落してしまうパラドクスに他ならない。

「ぼくは依然として人間の善への可能性を信じてはいるけれど、ニーバーは、人間の悪への可能性をもさとらせてくれた」。

両目を開いて人間を見る。そして自分自身を振り返る。

ここから始めない限り、どのような理想を掲げようとも「なんら保証されておらぬ楽観主義をいだき、無意識のうちに自己の正しさにたよっていた」イズムに陥ってしまうんだろうと思う。

……まあ、そんな話しをしたわけなんだけど、同時にいえば、だからといってこれは社会的な不正義をスルーしてもよいって単純な道義論ではありませんので念のため。