覚え書:「白いハト羽ばたけ:日米開戦から70年 反響特集 疎開、空襲…次世代に伝え」、『毎日新聞』2011年12月28日(水)付。




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白いハト羽ばたけ:日米開戦から70年 反響特集 疎開、空襲…次世代に伝え

 今月7、8日に連載した「白いハト羽ばたけ 日米開戦から70年」に、多くの感想が寄せられました。79歳で始めたブログで戦争体験を発信している女性に触発され、胸にしまっていた体験を書き送ってくれた方もありました。みなさんに共通していたのは、「二度と戦争は起こしてはならない」という強い思いです。戦争が遠くなりつつある今、どのように記憶を継承していくのか。取り組みを紹介します。【木村葉子】

 ◇「真実語り継ぐ」/戦中日記、冊子に/祖父の「自伝」整理

戦争を伝える朗読会を毎年開いている、小泉靖子さん
 「若い人にこそ知ってほしい。伝えることは戦時中に生まれた者の義務」と話す東京都杉並区の小泉靖子さん(76)は01年から毎年、「戦争を伝える朗読会」を開いている。小泉さんは終戦時10歳で、家族とともに埼玉県川越市疎開していた。戦火を逃げ惑ったこともなく、特段ひもじい思いもしなかった。「今に比べれば物がなかったけれど、みんな同じ状態だったからたいしてつらくはなかった」。語るほどの体験ではないと、2人の娘にはほとんど話してこなかった。

 子育てが一段落した40歳ごろ、興味のあった朗読を習い始めた。何か社会貢献できないかと始めたのが「戦争を伝える朗読会」だった。新聞やテレビ、ラジオなどで情報を集め、図書館で手記を探し作品を選んできた。限られた自身の体験を補おうと、関連する本を読み史実を学んだ。

 「若い人に知ってほしい」という思いで始めた朗読会だが、来場者は同年代の人ばかりだった。小泉さんが本の読み聞かせをしている小学校の保護者に頼み、2年前から地域の小学生に朗読しに来てもらった。その子の友だちや保護者も参加するようになり、輪が広がった。「ぜひまたやりたい」と手紙をもらうこともある。

 朗読会では、戦地からの引き揚げや空襲に関する自伝などを読み、命がいとも簡単に奪われた時代を伝える。「若い人は信じられないかもしれないけれど、事実です。わたしたちにできることは真実を伝えること。朗読会をきっかけに、どうしたらいいかみなさんに考えてほしいのです」

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 東京都日野市の塚本彰二さん(79)は、日本橋の久松国民学校(現東京都中央区立久松小学校)の6年生だった時、半年間、埼玉県伊奈村(現伊奈町)の寺へ集団疎開した。戦後50年近く過ぎて身辺整理をしたところ、存在すら忘れていた疎開日記を見つけた。


塚本さんが、学童疎開中に毎日書いていた日記=塚本さん提供
 ざら紙に書かれた鉛筆の文字はところどころ薄れ、判読しにくくなっていた。「せっかく50年以上保存していたのに、読めなくなってはもったいない」と、数年前にワープロで打ち直し、意味が通るように言葉を補った。数カ月かかって冊子にまとめ、級友や知人らに配った。「後世に伝えてほしい」と、母校にも日記の原本と冊子を寄贈した。

 「最上級生でしたが、さみしくてさみしくて東京へ帰りかった」。塚本さんは振り返る。食料確保でイナゴを捕って食べたこともある。「学童疎開でもっと大変な思いをしていた人は多い」と、声高に経験を語ることはなかった。だが、子どもが家族から引き離されたつらい疎開の日々を、機会があればぜひ語り継ぎたいと考えている。

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 兵庫県西宮市の女性(36)は、中国から引き揚げてきた母方の祖父が残した小説に加筆して、自身のブログ「仮住まいな日々 寄居的日子」に小説「開かれた遺言書」として発表している。

 祖父は軍属の通訳として、ロシアと国境を接する中国・黒竜江省に一家で赴任していた。終戦後、日本に帰国するまでに妻と2人の子どもを亡くし、単身帰国した。小説はその半生をつづったものだ。

 祖父は帰国後新しい家庭を築き、女性が生まれる前に亡くなった。写真でしか知らない祖父が、戦争で前の家族を亡くしたことは気づいていた。だが、祖母や母から詳しいことは聞いたことがなかった。「祖母が泣きそうになるのがつらくて、聞き出せなかったのです」

 祖父がこの小説を投稿した同人誌を、女性は7年前に伯父から譲り受けた。原文は旧仮名遣いで時系列も乱れ、読みづらかった。飢餓や寒さの中、命を落とした妻子への罪の意識にさいなまれる祖父の姿があった。小説には、知らなかった事実が盛り込まれていた。

 いつかは整理したいと思いつつ、子育てに追われ手つかずだった。しかし、3月の東日本大震災後、「何が起きるかわからない。子どもたちの手が離れてきた今のうちに」と、取り組んだ。「多くの人に読んでもらいたいと祖父は願っただろう」と考え、原作にはない場面も創作し、読みやすくした。

 「祖父が生きていなければ私も、小学生になる私の娘たちも生まれることはなかった。生きることをあきらめないでいてくれ、すばらしいと思います」。恵まれた時代に生きる人々にも、戦争は無関係ではない。

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 愛知県稲沢市の石見潔さん(79)の父は1925年、陸軍に入隊し20年間兵役に就いた。父が戦地に行っている間、家族は軍の命令で横須賀(神奈川県)や広島、山口などの官舎へ数回転居した。陸軍の将校が下宿していたこともあり、子どもだった石見さんの耳にも、一般には知らされない戦況が入った。

 1944年7月、広島市で空襲にあった。母は逃げ込んだ防空壕(ごう)で妹を早産。未熟児で生まれたため、重い障害が残った。「生涯一言も話すことができず亡くなった妹も、戦争被害者の一人。戦時中の父の記録や、私が見聞きしたことを書き残し、後世に伝えたい」と、ブログでの発信を考えている。
    −−「白いハト羽ばたけ:日米開戦から70年 反響特集 疎開、空襲…次世代に伝え」、『毎日新聞』2011年12月28日(水)付。

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http://mainichi.jp/select/wadai/news/20111228ddm013040122000c.html


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