なぜ人間は人間で共に悲しみ喜ぶようにならないのか






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 日本人の死は日本人だけが悲しむ。外国人の死は外国人のみが悲しむ。どうしてこうなければならぬのであろうか。なぜ人間は人間で共に悲しみ喜ぶようにならないのか。
    −−岩ヶ谷治禄『新版 きけわだつみのこえ』岩波文庫、1995年、275頁。

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第二次世界大戦の学徒出陣での声を集めた「きけわだつみのこえ」からひとつ。

どのような思想や信条、そして政治的立場をとろうと自由だとは思うが、人間の「死」について「国境」をはじめとする「境界」を付けてしまうことは違和感がある。

先日も「カダフィ大佐の死」関する中学生の投書から「人が死んで喜ぶような人であってはならない。たとえ、それが人殺しであっても同じだと思う」というのを紹介したと思うのですが、ホントに、「ざまぁ、みさらせ」ってなるとアウトなんだろうということを強く実感する。

今日はたまたま遺稿集を読んでいたのですが、好むと好まざるに関わらず、ペンを銃に代えて投入された学徒兵の肉声にその感を新たにさせられた次第です。

ぎりぎりの精神状態に置かれたひとりひとりの言葉が、強靭な精神力に支えられており、そこに感動を覚えてしまいます。

と同時に、圧倒的な狂気的の中で、このように知性的に問題を捉え、連帯という希望を抱き続けたことに驚愕もしてしまいます。

この素朴な言葉をどのように受け止めていくのか。

僕の課題なのかも知れません。

人間と人間との連帯は、外形的装飾によってじゃまされるはずはない。
カテゴリーや属性、そうしたものは本来的には、呪物信仰的な現代の「マモン」なんだろうと思う。

歴史を振り返れば、人間は、困難な状況の中でも希望を見出し生きていくことができる。
知性と感性を鈍磨させることなく、手を取り合っていける努力を継続していきたいと僕は思う。

関連エントリ 人が死んで喜ぶような人であってはならない。たとえ、それが人殺しであっても同じだと思う。 - Essais d’herméneutique





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