覚え書:「今週の本棚:本村凌二・評 『前キリスト教的直観−甦るギリシア』=シモーヌ・ヴェイユ著」、『毎日新聞』2012年1月8日(日)付。

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今週の本棚:本村凌二・評 『前キリスト教的直観−甦るギリシア』=シモーヌ・ヴェイユ

 ◇『前キリスト教的直観−甦(よみがえ)るギリシア
 (法政大学出版局・2730円)

 ◇眩い「愛の源流」が継承されゆくドラマ
 偽らざるところを言えば、本書を評する資格があるのだろうか、と評者自身で思う。女性でもない、キリスト教徒でもない、神秘家はおろか、詩人でも哲学者でもない、労働運動にも反戦運動にもくみしたことがない。

 だが、世俗にまみれた凡庸な読み手にも、こんなにも美しく純粋な魂があるのだろうか、とふるえる心はある。もちろん、訳者の華麗に流れる訳文が著者の魂と共鳴する響きに魅せられたせいかもしれない。さすがに「あとがき」のなかで、訳者自身、三六五日立ち返る一冊と記すだけのことはある。

 生まれながらの盲人とその不幸の原因について尋ねられたとき、イエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業(わざ)がこの人に現れるためである」(「ヨハネ福音書」)と答えている。

 不幸な境遇にある人は「なぜ、何のために」と叫び、その問いをくりかえす。この叫びが原因の追求なら応答を見出せるが、目的の追求ならいかなる答えもない。この宇宙全体には合目的性が剥奪されているのだから。この深い絶望のなかで人間の魂は苦悶(くもん)する。それは神の不在であり、神の沈黙である。信仰心を欠く者なら、ここでたじろぐか、後退(あとずさ)りするかだろう。だが、ヴェイユにとって、この苦悶のうちでこそ神の愛が光り輝くという。

 イエスは紀元三〇年ころ、十字架刑に処せられた。正義と認められることなく、法による罪人として不名誉なまま処刑されている。「わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と天を仰ぎながら。この呪われたイエスは復活し栄光につつまれたキリストによって覆い隠されている。だから、われわれがあがめるのは、正義そのものではなく正義と認められることにすぎない、とヴェイユは喝破する。

 このような完全なる正義の人の苦しみは、すでにプラトンによっても予知されたことであったという。彼は「すすんで正義であろうとする人はひとりもいません。不正義をとがめはするものの」(『国家』)と語り、「人間が愛するものは、善をおいてほかにないのです」(『饗宴』)とも指摘する。ここでヴェイユは「人間の不幸は、エゴイストたりえないことである。神だけがエゴイストである」という逆説を唱える。

 ヴェイユの叙述はしばしば論理的とはいえず、われわれを戸惑わせる。しかし、そこにはイメージの論理ともよぶべきものが連鎖しており、どこまでも純粋な次元にまで読者を引きずりこむ。ソクラテス以前の哲学者たちもピタゴラス派も悲劇詩人たちも、そしてプラトンも、言葉の奥にひそむイメージを追究することで、つながり合うのだ。だから、物語としてではなく、象徴として読み解くことになる。プラトンのなかでもこよなく美しいという数行がある。

 「最重要なことは、愛(エロース)が神々のうちにあっても人間のうちにあっても、不正義を働かず、不正義をこうむらないということです。というのも、愛(エロース)のもとに苦しみが訪れようとも、愛(エロース)は力によって苦しむことはないからです。愛(エロース)に力は到達しません。」(『饗宴』)

 力は絶対的な権限をもつ。だが、同時に、絶対的に軽蔑されるべきものでもある。それを見破ったところに、ギリシア人の偉大さがあり、全ギリシア思想の純粋な核があるという。この眩(まばゆ)いばかりの愛の源流がキリスト教のなかに継承されていく思想のドラマ。それをヴェイユは全身全霊をあげて直観したのだ。(今村純子訳)
    −−「今週の本棚:本村凌二・評 『前キリスト教的直観−甦るギリシア』=シモーヌ・ヴェイユ著」、『毎日新聞』2012年1月8日(日)付。

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