善良さには知識が伴っていなければならない。単なる善良さはたいして役に立たぬ


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三一〇
 善良な人々。−−善良な人々は、その祖先たちが、他所の人の干渉に対して絶え間なのない恐怖を抱いたことを通して、自らの人柄を獲得してきた。ーー祖先たちは穏やかにし、なだめ、謝罪し、身をかがめ、気をそらせ、お世辞をいい、頭を下げ、苦痛や不機嫌を隠し、すぐまたその機嫌を直した。こうしてとうという彼らは、この繊細でうまく演奏される装置の全体をその子孫たちに伝えた。子孫たちは運命が好都合であったためにあの絶え間のない恐怖のきっかけを持たなかった。それにもかかわらず、彼らは間断なくその楽器を演奏している。
    −−ニーチェ茅野良男訳)「曙光」、『ニーチェ全集」第7巻、ちくま学芸文庫、1993年、306頁。

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悪態ついて暮らすよりも、善良な市民として生きた方が、はっきりいえば「トラブル」を未然に回避できるし、他人様から「非難」されることも極力ありませんから、そりゃあ、そのほうがいいに決まっている。

しかし、その善良であることが、「わたしは加担していませんよ、あしからず」的な貼付となってしまった場合、あまりおすすめできるものでもない。

他者から切り離された自己防衛として利用する「善良」なんか反吐が出る。

くどいけれども、悪態ついて暮らすよりも善良であることの方がおそらくマシなことぐらい僕も承知しております。いわば生きる知恵のひとつといってもいいでしょう。

しかし、その善良さは、他者と切り離されて稼働しているのか、それとも他者との有機的な相即関係のなかで、機能しているのか、これはいっぺん、点検する必要はあると思う。

そしてその「善良である」ことは、その相即関係のなかで機能するとき、ときとして社会的常識への挑戦となることもあるンですよ。

しかし、そこで、「手前どもは、関係のありません」と「良き市民」の「自己防衛」として機能してしまうとマズイわけなんだ。

「良き市民」として「善良である」ならば、住んでいる世間様に馴致されることとイコールではないはず。それをレコンキスタすることこそが「良き市民」のエートスなんだと思うわけ。

だからそれが「自己防衛の論理」として収まってしまうのならば、単なる「卑下」にすぎないし、それが社会が人間を惰化させようとする「生ー権力」への挑戦として機能した場合、“善さ”ってものが発揮するんだろうと思うんだけど、どうでしょうか。
※くどいのですが、青年反抗期のように、「ゴルァ」って破壊衝動を肯定しているわけではありませんよ、念のため。

あんまり好きじゃないけど、ガンディー(Mohandas Karamchand Gandhi, 1869−1948)も「単なる善良さはたいして役に立たぬ」と言ってますしねぇ。


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「善良さには知識が伴っていなければならない。単なる善良さはたいして役に立たぬ。人は、精神的な勇気と人格に伴った優れた識別力を備えていなければならない」という言葉にもよく表れております。
    −−ガンジー(K・クリパラーニー編・古賀勝郎訳)『抵抗するな・屈服するな ガンジー語録』朝日新聞社、1970年。

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