無邪気さについての雑感






        • -

 世界がどれほどの価値あるものなのかということを、世界の最小の小部分でさえも、顕示してくれるに違いない、−−人間を見よ、そうすれば諸君は、世界についてどう考えるべきであるかを、知るであろう。
    −−ニーチェ渡辺二郎訳)「哲学者の書」、『ニーチェ全集』第3巻、ちくま学芸文庫、1994年、305頁。

        • -


twitterとFBで昨夜、少し吠えた内容なんだけど、大事だと思うので、少し加筆して残しておきます。

さて・・・・
(それが悪い訳じゃないけど)無邪気に前進できる人ってうらやましい。

当然、否定できないほどそれが自他ともに「善いこと」をやっている場合もなんですよ。別にそれを貶めようというのは筋ではありませんが、無邪気というのを「無反省」と置き換えてもいいんですが、そういうわだかまりがあります。
*もちろん、僕が念頭においているのは、そういう事例よりも、どちらかといえば、明らかに「オカシイ」ことをそうやっている場合とか、たとえば敵対勢力を「批判」するだけで、それを「勝利」と勘違いする連中のことですので、念のため。加えて、「勝利」という言葉の値打ちも天文学的に崩壊したなとは思けど、これはまた別の機会に。

戻りましょう。

で、、、現実のところ、それ以上に唾棄すべきは、それを喰いものにする連中だ。うとましい。

こういうわけで、僕は慎重になってしまう。

純粋さを人と比べようとはおもわないし、「オレの方が正義のレースに熱心なんだ」って浅はかな決意発表みたいなのには反吐がでる。

大声をださないで慎ましくいきていく。

そしてその取り組みのなかで、時代を変革しゆく連帯をデザインしたい。

たぶん、連帯っていうのは、何か、特定の枠組みがあって、そこに自分を鋳造していくのではなく、「ほぉ〜」って感覚で近所のひとが集まって(=離脱自由を含む)、それぞれが取り組んでいくことなんだろうな。

日本ではそれが特に政治的イシューに収斂されるから連帯できないんだよ。

いろいろとかかわりもあるし、文句もあろうだろうから、政治的人間として振る舞わざるを得ないことは承知だけどさ、そういう上っ面な部分だけでない、集合離散のルーズな人間同士の連帯がたぶん、必要なんだろうと思う。55年体制の最大の問題は、すべて「政治」で解決できると夢想したことだ。

困った人に手をさしのべるのには(そしてそれは裏をかえせば、自分が手をさしのべられるには)、本来、思想信条は関係ないはずなんだよ。だけど、あいつは赤だとか、右だとか、……ねぇ。(表現はわるいけど)津波地震の前には、そんなもんは関係ない。

それを利用する権力に騙されないようしないと。

政治的イシューに熱心になればなるほど、敵と味方の二元論に収斂されてしまう。

そして結局、手を入れるべき問題がスルーされ、こぼれおちていくということを自覚する必要があると思うのだけど……ねぇ。







Resize0359