覚え書:「今週の本棚:中村桂子・評 『親切な進化生物学者』=オレン・ハーマン著」、『毎日新聞』2012年1月29日(日)付+讀賣の書評。


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今週の本棚:中村桂子・評 『親切な進化生物学者』=オレン・ハーマン著

 (みすず書房・4410円)

 ◇利他的行動にささげられた「天才」の生涯
 五〇〇ページを超える本書を読みながら、書評したいな、いやこんな面倒な本は止めようと揺れ続けていた。結局、あまり自信のないままこの文を書き始めている。

 本書の第一主題は、ジョージ・プライスという天才としか呼びようのない人物の数奇としか言いようのない人生である。そして第二主題が、ダーウィン以来進化論の難題とされてきた利他的行動の研究史である。原題は「The Price of Altru−ism」。ここに「利他的行動の代償」と「利他主義のプライス」という二つの意味がこめられていることを承知しながらの邦題である。利他行動研究で驚くべき成果をあげたプライスは、利他行動にはまりホームレスとして自らの手で生を終える。

 この複雑な心の世界と面倒な学問との絡み合いをなんとか紹介したいと思うのは、ここに科学の本質を見るからである。生身の人間の行為である科学では、その問いと研究者との間に相克があって然るべきだ。とくに生命・人間が関わる場合には。ところが近年、経済上役に立つことばかりが話題になり科学の本質が忘れられている。

 前説が長くなった。適者生存を基本とする進化の中で、「親切な行為」はどう位置づけられるのだろうか、その起源は自然の中にあるのだろうかという問いは、ダーウィン自身のものである。以来、生物学者はもちろん、P・クロポトキン、J・フォン・ノイマンなど多くの人物がこれに取り組んだが、未だに解決してはいない。とくに、利他行動は個体の利益のためか、群のためかという問いがくり返されている。その中で、フィッシャーがダーウィンとメンデルを結びつけ、その後メイナード・スミスやビル・ハミルトンが遺伝子を共有する血縁に注目し、遺伝子からの利他行動の説明を始めたのが一九六〇年代である。そして一九七六年、R・ドーキンスが『利己的遺伝子』で個体は遺伝子の乗り物であり、取りしきるのは遺伝子だと言い放った。この歴史にプライスの名はない。実は、一九六七年から七四年の七年間に、彼が遺伝子、個体、群、種という多層レベルでの淘汰(とうた)を一元的に捉える方程式を出していたのにである。利他行動をレベルで分けたり、血縁淘汰など特定の概念を用いたりせずに一般論で説明しているというのだから驚く(残念ながらこの式の正確な理解は私には難しい)。

 彼の履歴は、ハーヴァード大学での入学面接で「ガラスを見えなくする実験」について説明して、「無茶をするかもしれないが、凡庸になることはけっしてないだろう」と評価され奨学金を得るところから始まる。その後、マンハッタン計画トランジスタやコンピュータソフトの開発に関わるのだが、ある時突然、利他性、つまり愛や慈善の進化に関心を持つ。そこで考えた数式をロンドン大学の人類遺伝学教室へ見せに行き、九〇分後には名誉職員の身分と部屋を与えられている。ふしぎな人だ。しかし、結局メイナード・スミスとビル・ハミルトン以外には彼の業績の本質は理解できなかったとある。

 しかもプライスは、ある時突如回心し、廃屋を借りてコミューンを開き、ホームレスを助け始めるのだ。アルコール依存症などの人々に金銭や持ち物のすべてを与え、自身もホームレスになり、健康を損ねる。最後には、経済学で真の利他性を研究することを考え始め、周囲もそれを助けようとはしたのだが、再浮上はならず一九七五年一月、五二歳で自らの生涯を閉じた。

 利他とは何なのだろう。読み終わって辿り着いたのは最初の問いである。(垂水雄二訳)
    −−「今週の本棚:中村桂子・評 『親切な進化生物学者』=オレン・ハーマン著」、『毎日新聞』2012年1月29日(日)付。

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http://mainichi.jp/enta/book/hondana/news/20120129ddm015070037000c.html


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『親切な進化生物学者』 オレン・ハーマン著

評・中島隆信(経済学者・慶応大教授)
自己犠牲の起源とは


 ダーウィンの進化論は、環境変化に適応できた生物が生き残るという意味で自然淘汰
の理論として知られる。そのため、生物の営みは利己的な生存競争だと解釈されがちだ。
 しかし、自然界では他者のための自己犠牲という利他行動も広く見られる。たとえば、働きバチは子を産まず黙々と蜜を集めて女王バチに奉仕する。サルは声を発して自らを危険に晒しつつ敵の来襲を仲間に知らせる。こうした利他行動はなぜ進化したのか。この疑問に一般的な解答を与えたのが本書の主人公、天才科学者ジョージ・プライスである。
 プライスの人生はまさに自由奔放だ。自らの関心の赴くまま、原爆開発で知られるアメリカのマンハッタン計画への参画、ガン転移の検査装置の開発、コンピューター支援設計、経済学者サミュエルソンとのモデル構築などほぼ独学で様々な学問を渡り歩いていく。その間、家族を捨て、友人と衝突し、利己的ともいえる行動を繰り返した挙げ句、辿り着くのが生物の利他行動を解明する一般理論の構築とは皮肉だ。
 輝かしい実績を残した進化生物学もプライスの居場所にはならなかった。彼は突然キリスト教に帰依し、すべてをなげうってロンドンのスラム街でホームレスやアルコール症患者の支援を始める。その行動は以前と打って変わって道徳心溢れる宗教者そのものだ。そして、病と飢えに苦しみ、孤独感に苛まれたプライスに悲劇的な結末が訪れる。
 こうしたプライスの一生からどのような教訓が得られるのだろうか。困っている人を見ると助けようとする私たちの利他行動は何に由来するのだろう。それは人類が生き残るための技として進化してきた結果なのか、あるいは感情の生き物でもある人類独特の道徳心によるものか。
 進化生物学の歴史物語としてだけでなく、プライスの人生と重ね合わせて人類の利他行動の奥深さを考えさせてくれる秀逸の一冊といえる。垂水雄二訳。

 ◇Oren Harman=イスラエル・テルアビブ在住。バル・イラン大学教授、専門は生物学史。
 みすず書房 4200円
    −−「『親切な進化生物学者』 オレン・ハーマン著 評・中島隆信」、『読売新聞』2012年1月23日(月)付。

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http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20120123-OYT8T00299.htm?from=tw

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