人間の知性は一旦こうと認めたことには、これを支持しこれと合致するように、他の一切のことを引き寄せるものである




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 人間の知性は(或いは迎えられ信じられているという理由で、或いは気に入ったからという理由で)一旦こうと認めたことには、これを支持しこれと合致するように、他の一切のことを引き寄せるものである。そしてたとい反証として働く事柄の力や数がより大であっても、かの最初の理解にその権威が犯されずにいるためには、〔ときには〕大きな悪意ある余談をあえてして、それら〔反証〕をば或いは観察しないか、或いは軽視するか、或いはまた何か区別を立てて遠ざけ、かつ退けるかするのである。それゆえに、海難の危険を免れたので誓いを果している人々の図が、寺に掲げられているのを示して、さて神の力を認めるかどうかと、尋ねつつ迫られたかの人は、正しくもこう応じた、すなわち彼は「だが誓いを立てた後に死んだ人々は、どこに描かれているのか」と問いかえしたのである。占星術、夢占い、予言、神の賞罰その他におけるごとき、すべての迷信のやり方は同じ流儀なのであり、これらにおいてこの種の虚妄に魅せられた人々は、それらが充される場合の出来事には注目するが、しかし裏切る場合には、いかに頻度が大であろうとも、無視し看過するのである。ところがこの不正は哲学および諸学のうちには、極めて抜け目ない形で忍び込んでいる。そこでは一旦こうと認められたことが、残りのものを(それがはるかに確かで有力なものであろうとも)着色し〔自分と〕同列に帰してしまう。それだけではない、かりに我々のいま言った魅惑や虚妄がなかったとしても、人間の知性には、否定的なものよりも肯定的なものに、より大きく動かされ刺激されるという誤りは、固有でかつ永遠的なものである、未来正当には、両者に対して公平な態度を取るべきであるのに。いや逆に、すべて正しい公理を構成するには、否定的な事例のもつ力のほうがより大きいのである。
    −−ベーコン(桂寿一訳)『ノヴム・オルガヌム 新機関』岩波文庫、1978年、87−88頁。

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お金がないので新刊をなかなか買うことができないので、古典ばかりを読み直しておりますが、イングランド近世の思想家フランシス・ベーコン(Francis Bacon, Baron Verulam and Viscount St. Albans、1561−1626)の『ノヴム・オルガヌム』の叙述に瞠目するばかり。

教科書的に紹介すれば、人間の陥りやすい偏見や先入観、誤謬といったものを四つのイドラ(idola:幻像)として指摘し、観察や実験を重んじるイギリス経験論への筋道をつけたマニフェストのような作品です。

ただ、それは勢いをつけて鉈を振り下ろすようなマニフェストというよりも、人間のドクサを指摘していくその繊細な筆致は、薄皮をはぐ鋭利な職人芸。

確かに「人間の知性は(或いは迎えられ信じられているという理由で、或いは気に入ったからという理由で)一旦こうと認めたことには、これを支持しこれと合致するように、他の一切のことを引き寄せるものである」。

人間の情報選択の恣意性は、その人の都合のいい形で遂行されるわけですけれども、まさにこれはベーコンが500年前に指摘したとおり。

最近、様々な議論において「ちょっと待てよ!」……っていう暴論が割合に大手を振って歩いている様を見るにつけ、冷や汗をぬぐう暇なしという情況でしたので、綿密に人間の億見をじわりじわりと突くベーコンに拍手喝采

ホント、最近、イドラだらけ(涙









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