自分自身のうちに、最も悪質なファシストや犯罪者におけるのと全く同質の悪がひそんでゐること



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日本の進歩主義者は、進歩主義そのもののうちに、そして自分自身のうちに、最も悪質なファシストや犯罪者におけるのと全く同質の悪がひそんでゐることを自覚してゐない。一口に言へば、人間の本質が二律背反にあることに、彼等は思ひいたらない。したがつて、彼等は例外なく正義派である。愛国の士であり、階級の身方であり、人類の指導者である。そのスローガンは博愛と建設の美辞麗句で埋められてゐる。正義と過失とが、愛他と自愛とが、建設と破壊とが同じ一つのエネルギーであることを、彼等は理解しない。彼等の正義感、博愛主義、建設意思、それらすべてが、その反対の悪をすつかり消毒し、払拭しさつたあとの善意だと思ひこんでゐる。
 その何よりの証拠に、彼等は一人の例外もなく不寛容である。自分だけが人間の幸福な在り方を知つており、自分だけが日本の、世界の未来を見とほしてをり、万人が自分についてくるべきだと確信してゐる。そこには一滴のユーモア(諧謔)もない。ユーモアとは相手の、そして同時に自分の名かのどうしやうもないユーモア(気質)を眺める余裕のことだ。感情も知性と同じ資格と権利とを有することを、私たちの生全体をもつて容認することだ。過去も未来と同様の生存権を有し、未来の過去と同様に無であることを、私達の現在を通して知ることだ。そこにしか私たちの「生き方」はない。それが寛容であり、文化感覚といふものではないか。
    −−福田恆存進歩主義自己欺瞞」、『文藝春秋』昭和三十五年一月。

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僕自身は保守派だとも思わないし、脊髄反射としての改革派なんてたやすい旗をふりたいとも思わないけど、大事にしていることは、目の前の人間をどれだけ大切にできるかということ。

イデオロギーが人間を規定することの愚かさは、人間の歴史が証明しているし、恣意的な「ずるずるべったり」が不正を許容していしまうことも同じです。

卵が先か、鶏が先か……っていう不毛な議論を乗り越え、どのように人間と関わっていくのか。

たぶんそこに、寛容性のヒントがあると思うんです。

だからこそ、他者と不可避に関わっていく、不可思議な、そして矛盾に満ちた自分自身の二律背反を深く踏まえないといけないはずなんですが、

今日のご時世、

そのへんに無自覚に、なにやってもいいんだ、ゴルァが多いですよね。

ふぅ。






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