人間社会は、貴族的である限度に応じて社会たりえ、貴族性を失うに従って社会たることを止めてしまうほど、貴族的なもの





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 今日われわれは、残酷な大衆支配のもとに生きている。まさしくその通りである。わたしはこの大衆の支配を二度にわたって「残酷」と呼んだ。ありふれたきまり文句の神さまにはすでに十分に貢物に捧げたので、これからは、手に入れた切符を持って、心楽しく本題にはいり、内部から出し物を眺めることができるわけである。読者諸兄は、今までのたぶん正確ではあろうが、皮相的な記述のみでわたしが満足するとお考えだったろうか。今までの記述は単に表面的・側面的現象に関するものであり、実はその裏に過去から見た場合に恐るべき事実が存在することを見逃しているとお考えだったろうか。もしわたしが、ここでの問題をうち切り、この論文にこれっきりで終止符を打ったとすれば、読者諸兄が、大衆が歴史の表面に信じがたい登場をなしとげたということに、わたしがいくらかの憎悪感と嫌悪感を抱き、不機嫌で侮蔑的な言葉を口にしたにすぎないではないかと考えられても、それは正しいというほかないであろう。特にわたしは、周知のごとく、歴史に対する根本的な貴族主義的な解釈の支持者であるからなおさらのことである。根本的というのは、わたしはいまだかつて人間社会は貴族的でなければならないといったことはないばかりか、それ以上のことをいってきたからである。わたしは、人間社会はその本質上、好むと好まざるとにかかわらずつねに貴族的であるといってきたし、また日ごとにその確信を強めている。人間社会は、貴族的である限度に応じて社会たりえ、貴族性を失うに従って社会たることを止めてしまうほど、貴族的なものなのである。わたしは社会を問題にしているのであって、国家(ステート)について語っているのではない点を誤解しないでいただきたい。
    −−オルテガ・イ・ガゼット(神吉敬三訳)『大衆の反逆』ちくま学芸文庫、1995年、23−24頁。

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生まれによって判断されることは唾棄すべきだが、矜持をもたず、生きているだけという状態も同じく唾棄すべきだろう。

ひとは行いによって「貴族」たりえる。
そして「責任」を自ら引き受けることが可能になる。

自己に対する責任は、とりもなおさず他者の存在に対する責任へと道ずる。

無関心・無責任を決め込むことは、自分を放棄することにつながるンだけど、その辺を勘違いするととんでもないことになってしまう。

権力者によって演出された「“馬鹿”な大衆」なんてどこにも存在しない。

存在するのは、権力に関わろうが・関わらなかろうが、「無関心・無責任」を決め込むことだ。

何も土足で他人に家に入れとか、「意識の高い〜」になれっていう話しではない。

それよりもむしろ、他者へのチャンネルを自ら閉ざすなということが精確かもしれない。

他者へのチャンネルを自ら閉ざすことによって、都合のいい「大衆」が組織され・動員されていくからだ。





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