葬儀が「人」と「人外ノ者」を分かつとは怖ろしい





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葬儀の自由化
 新政府の宗教政策、教化政策を簡単に振り返っておきたい。
 一八六八年の「王政復古」による祭政一致政策に基づき、まず、大宝令にある神祇官太政官と並び、復興されることになった。キリシタン禁制の高札の再掲、神仏分離令神仏判然令)が出された。
 「大教宣布」のために宣教使が置かれた。その後、教部省の設置に伴い教導職が任命された。教導職は、初めは神官のみが務めたが、仏僧も参加し、その養成のための施設として中央には大教院、府県には中教院、各地に小教院が設けられた。その中心的教えとして「敬神愛国」「天理人道」「皇上奉戴」を柱とする「三条の教則」が定められた。
 一八七二年には、自葬を禁じ、葬儀は神官僧侶によるとの布告が出された。実は、この布告が、次の年にキリシタン禁制の高札が撤去されても生きていたのである。さらに一八七四年、葬儀の執行が神官僧侶のみならず教導職にも拡大された。
 この一連の動きを見ると、「神仏判然」令に反発した仏教の取り込みが見られる。まず、過激な廃仏毀釈とそれに対する抗議に対して、神仏分離廃仏毀釈でないとの通知を出した。外国に学んで信教の自由の思想に接した真宗島地黙雷は、教導職に任命された仏僧が、神官の下で「三条の教則」を説くことに抗議、ついで「大教院分離建白書」を一八七三年に提出した。ついに一八七五年、大教院は解散する。
 一八七五年には「教法ヲ説ク者ト教法ヲ受クル者トヲシテ共ニ信教ノ自由ヲ完全ナラシムル」ころをうたった「口達」を神仏各管長に出して。信教の自由を保障した。だが、これらからわかることは、あくまで仏教に対しては信教の自由が保障されても、キリスト教にはなかった点である。
 キリスト教による葬儀が、全面的に認められるのは、一八八四(明治一七)年の教導職の廃止まで待たなくてはならなかった。同年八月、神仏教導職が廃止されたことに伴い、一〇月、「葬儀ヲ依托スルハ一々喪主ノ信仰スル所ニ任セ不可ナカルヘシ」との内務卿口達により、初めてキリスト教式葬儀が可能になる。ところが、この口達には、続いて墓地と葬儀の場所に関し制限のある旨の言葉が見られた。

葬儀の習俗
 高札の撤去後も、キリスト教への入信を妨げる大きな要因として、依然として葬儀が神官と僧侶にしか許されていない実情をみてきた。小沢三郎は、その状況のなかでのキリスト教の葬儀を四種に分けている。
 (1)仕方なしに、異教によって葬儀を行ったもの。
 (2)国法に従うべきであるとして、積極的に合法的葬儀を行ったもの。
 (3)申し訳的に合法的葬儀を行い、それとは別に立派なキリスト教式葬儀を執行したもの。
 (4)キリスト教信仰に従って、自葬の禁を無視し、キリスト教式葬儀を行ったもの。
 一八七二年の布告に正面から違反するケースは最後の(4)であり、松本儀兵衛のケースはこれにあたる。前述の仙太郎のケースは、キリスト教式葬儀に関しては内輪で行っただけであるから(1)かもしれない。
 きわめて長期にわたるキリシタン禁制のための檀家制度の結果、日本人はすべて、どこかの寺院に所属し、葬式は仏教式に行う方式が習慣になり固定化した。
 キリスト教関係の週刊誌である『七一雑報』三九号(一八七七年九月二八日)に盛岡の鈴木舎定(しゃてい)の「質疑」と題した投書が掲載されている。鈴木舎定はキリスト信徒であるとともに自由民権運動にも従う人物である。それには、政府が依然として信教の自由を認めない次の話が記されている。
 東京の神田辺りに住む人に、ある日、役所から呼び出しがあった。何事だろうと行くと、お寺はどこであるか、また何宗であるかが不明なので定めるように告げられた。その人はキリスト教を奉じていたため、できないと答えた。それは「大変不都合千万」であるから戸長の印鑑をつけて東京府庁に届けるようにと命ぜられた。それで府庁に届けたところ、府庁からはキリスト教に回収することは聞き入れられないとの指令があった。
 この話は、まさに檀家制度の旧習が、一八七七(明治一〇)年になっても、まだ役所に残っていた表れである。仏教に対する信仰というよりも、葬式を中心とした強い習俗がつくられていたのである。これが「イエ」制度を生み、「イエ」の宗教をつくった。その結果、今日、世論調査などで宗教は何かとの質問に対し、いまだに自分の宗教でなく「イエ」の宗教を答える人が多い。
 習俗は葬儀だけにとどまらず、死者を埋葬する場である墓地にまで及んでいる。これがキリスト教徒にとっては、もう一つの難問だった。特に墓地が寺院にしかない地域は大変だった。一八八四年にキリスト教式の葬式が認められるようになっても、墓地を管理する寺院側は、各宗派が連合してキリスト教式埋葬を排斥する規約や申し合わせなどを作っている。小沢三郎の報告には、一八九一年の全国仏教者大懇話会の決議、一八九七年の千葉県富津村および一八九九年の福井県武生町の各宗寺院の規約が紹介されている。それらでは、キリスト信徒の埋葬のための墓地の貸与の禁止、キリスト教式葬儀を行った者の埋葬の拒絶がうたわれている。
    −−鈴木範久『信教自由の事件史  日本のキリスト教をめぐって』オリエンス宗教研究所、2010年、48−51頁。

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仕事へ行くまで、明治日本のキリスト教禁教の高札撤廃前後の文献をまとめて読んでいたので、少しだけ紹介。

禁教高札の撤去後も、キリスト教への入信を妨げる大きな要因は、葬儀が神官・僧侶にしか許されていなかったことが原因という話しです
※禁教高札撤去後も前年に出された太政官布告第192号が生きていたからです。

その意味では1873(明治6)年2月24日の「キリシタン禁教の高札撤去」の撤去は信教の自由というよりも「黙許」(鈴木範久)と表現せざるを得ないのがその内実かも知れません。

そしてここで注目したいのは……もちろん信教の自由は大事なのですが……葬儀が「人」と「人外ノ者」を分ける指標になっていたという事実です。

葬儀が「人」と「人外ノ者」を分かつとは怖ろしい。

正式にキリスト教による葬儀が認められるようになるのは1884(明治17)年の教導職廃止まで待たねばならなかった……。

1884年10月。

「葬儀ヲ依託スルハ一々喪主ノ信仰スル所ニ任セ不可ナカルヘシ」との内務卿口達でキリスト教式葬儀が公認されるけど、現実には墓地と葬儀の場所に関しては制限を付嘱している。

結局はキリシタン禁制の檀家制度という「習俗」が「内心の自由」に対して大きく立ちはだかることになったという寸法でしょうか。

廃仏毀釈後、仏教のメインラインでは、その脊髄反射と「神道」よりも「国家」に“忠実”そして“役に立ちますよー”として制度にすりよる選択肢をとるから、基本的に異教排除の立場を堅持します。

だから、先の口達以降も、墓地を管理する寺院側は、各宗派が連合してキリスト教式埋葬を排斥する規約や申し合わせを行っている。

葬儀の自由はいくら法令で伝達してもその環境がない限り形骸化も同然ですよね。

僕は別に仏教をdisってキリスト教偉い!などというお花畑な構造を演出しようとは決して思わないけど、日本に根付く「異質なものを排除する」構造が、(葬儀や埋葬に関わる)「死」をひとつの取引材料として利用し、同化を強制しようとすることには違和感があるンだよな。

その意味では、政治的な考え方や、思想信条に基づく発想の違いが存在することは承知なんだけど、「死」をひとつの材料やネタにして、「イエスかノー」を迫る「道具」として、それを「利用」することには、その目的がいかに崇高であったとしても組みできないんだよな。

例えば、忌まわしき「村八分」という愚かなルールですら「葬儀」と「火事」は排除から除外するとしているのですが、そのムラ社会以上にorzなのが、近代日本の内心の自由を制限しようとする試み。

これがいびつなかたちでいろんなところに出てきている。

くわばらくわばら。



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