真理を探究するには、生涯に一度はすべてのことについて、できるかぎり疑うべきである。
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一 (真理を探究するには、生涯に一度はすべてのことについて、できるかぎり疑うべきである。)
我々は幼年のとき、自分の理性を全面的に使用することなく、むしろまず感覚的な事物について、さまざまな判断をしていたので、多くの先入見によって真の認識から妨げられている。これらの先入見から解放されるには、そのうちにほんの僅かでも不確かさの疑いがあるような、すべてのことについて、生涯に一度は疑う決意をする以外にないように思われる。
−−デカルト(桂寿一訳)『哲学原理』岩波文庫、1964年、35頁。
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「疑う」というフレーズを耳にすると、どうやら「何かうしろめたい」「できれば避けたい」と意識してしまう人が多いようだし、できることなら、そうした面倒な手続きを割愛したいという人情もわからなくはない。
しかし、そもそも「疑う」ということは、「疑うために疑う」訳ではく、「確実性」を手に入れるために「疑う」ということが哲学的思索の出発点であることは明記すべきなんじゃないかと思う。
人は様々な知識や伝統、そして常識というものを、ほとんど無意識に身につけることによって、無反省的に社会のなかで生きていくことができるようになる。
それを悪い方向から示唆するとすれば「惰化」といってもよいでしょう。
*もちろん、だからといってそのすべてをぶっ壊せという脊髄反射はよくないのだけどね。
しかし、ときどき点検していかないと、「本当は○○なんじゃないのかな」ってことから大きく逸脱し、時としては、自覚なしに他者を否定したり、またされたりすることになってしまう。
だからこそ、「生涯に一度」ぐらいは、「疑う決意をする以外にないように思われる」。
そのことによって、これまでは海に浮かぶ水面の氷山を見ていたにすぎなかった前日から、今度は水面下の氷山をも見ることのできる今日、そして明日という複眼的なまなざしをみにつけ、そのものへ近づいていくことができるはずですからね。
「確実性」を求める「疑い」は、「確実性」と「思いこむ」感性(=陥穽)よりは、少し彩り豊かな世界を、僕たちのまえに見せてくれるものですから。
既成の制度やら概念といったものが制度疲労から音を立てて崩れだした昨今、柔軟に対応したいものです。
まあ、からくりを理解したからといって単純に全否定するのも早計かも知れませんが、「そういうことなんだよね」っていう理解があるとないでは大きな違いになりますから。