他人に恩恵を求めてその与えられざるを怒り、常に世の無常を憤りながら憂き日月を送る者は実に愚かなる者である
アゴラの記事「『ディマンディング』が生み出す弊害について」(青木勇気さん)の記事を読みながら、「確かになー」ということが多かった。
「ディマンディング」とは「過剰に要求する(こと)」といった意味。
うえの記事ではいくつかの実例を紹介しながら、それの生み出す弊害について言及したものになります。
確かに生活のなかでは「異議申し立て」をしなければならない局面は無数に存在します。しかしその「異議申し立て」なるものが、発話者の「自覚」の問題と切り離されて拡大してしまうと、「自分で考え、判断すること、つまりは『自立』の障害」をもたらすことになってしまう。
例えば、民主党政権が終わっている、野田内閣が終わっている、ことは百も承知なのですが、「ぶっこわれろー」だとかその手の罵詈雑言だけを浴びせることで、「私はやるべき役割を果たした」などと勘違いするとそれは大きな誤りになってしまう。
たしかに「終わっている」し、素人に対して「じゃあ、終わっていると指摘するなら“対案”を出せや、ゴルァ」と上から目線しても意味がないことも承知です。
だけど、ある対象を適当にdisるだけで、「はい、いっちょ仕事完了」という短絡的な発想から脱却しない限りは、誰が何をやろうとも、「外野」気分で、文句だれたれておわってしまうんじゃないのか……ってそのことだけが杞憂なんですね。
まあ、話しが少し脱線しましたけど。
そういえば、今日は久しぶりに内村鑑三(1863−1930)の文章を読んでいたので最後にひとつ紹介しておきます。
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満足の人とは独立の人である、不平の人とは依頼の人である。神と自己とに頼って生存する人にはこの世ははなはだ愉快なるところである。しかるにこの明白なる原理を知らないで、他人に恩恵を求めてその与えられざるを怒り、常に世の無常を憤りながら憂き日月を送る者は実に愚かなる者である。幸福とは常にわが腕と心にある。これを他人の手に求めてわれらに来るものはただ失望と恥辱と不平とのみである。
−−鈴木俊郎編『内村鑑三所感集』岩波文庫、1973年、83頁。
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