王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりとも心をば随えられたてまつるべからず






中学校のときの同級生にクリスチャンがひとりいた。
修学旅行は、京都・奈良の史跡・社寺仏閣が中心のコースだったと思う。
その時、その同級生は、お賽銭を投げるだとか、鳥居をくぐるだとか、手を合わせるだとか、そうした「慣習」をきっぱりと拒否した。

キリスト教徒と一口にいっても様々な立場の人もいるし、同じ教派であっても、受け止め方の温度差はある。

しかし、今にして思えば、恐らくそういうことに峻厳なプロテスタントの所属だったのだろうと推察されるけれども、中学3年生の少年が、自らの内心の自由を尊重する立場から、そうした「圧倒的に同調化」してくるものに「ノー」と意思表示したことには、一種のすがすがしさを覚えたことが懐かしい。

もちろん、仲間たちは、そうした姿に対して、

「なんで、やらないの?」
「日本人としておかしいのじゃないの?」
「調和を乱す奴だなーー」

……って不躾な言葉で対応した。

そして、少し知恵のある連中は、

「信仰は信仰として大事だけど、形式的に皆に合わせるだけならば、信仰を否定することにはならないから大丈夫だよ」

との言葉で……恐らく同情と心配からなのでしょうが……励ましていた。


さて……思い出話はここまで。

異なるものを排除して、制服を着せた軍隊という「古来の伝統」とは相反するイコンを接ぎ木して、それを強固した同調同圧社会というのが日本の実状なんだろうと思うわけだが、そこで便利に使われるのが「調和(を乱すな)」というフレーズだろう。

「調和を乱すな!」。

この「調和」という言葉は、楽典式の本来の字義通りに解釈するならば、それは様々な音が「うまく整い、全体のバランスがとれていること」(=ハルモニア)の生成を意味するものだ。

だとすれば、全てが単音で形成されることイコール「調和」を意味するわけではない。

しかし、どうやらこの国では、皆が皆それを遂行しないと「日本人としておかしいのじゃないの?」という単音「誤読」としての「調和」が流通しているようだ。

そしてもうひとつの盲点は、「形式を合わせることは、内実に関与しない」という言い方に出てくるから、そこに注目したい。

近代日本の信教の自由(内面の自由)の歴史を振り返ると、実はこのフレーズがマジックとして機能しているのがひとつの事実。

本来、内心の自由は、完全に取り締まることが不可能だ。
思想信条は、どのようにねじ伏せられ・制限されようが、魂までは奪われてたまるか……と命がけで抵抗する。

これは鎌倉時代の仏僧日蓮(1222−1282)が『撰時抄』のなかで言及した魂の独立宣言として理想的に表現されている。

「王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりとも心をば随えられたてまつるべからず」

この立場は、あらゆる思想信条においても根本的には同じだろう。

しかし、それを逆手に取って、「内心は許すが、外面は従え」というのは、いささか乱暴だろう。これをこの国土世間では、やすやすと受容されてしまい・やってしまうことには驚いてしまう。

戦前日本の、治安維持法へ至る統制の経緯を振り返ると、形式・職務違反として「制限」から「内心の自由」へ踏み込んでいくのがその常道だからだ。

このあたりをふまえていかないと、単音一色主義を「調和」と錯覚したり、「これは、しきたりだから、内面に踏み込んでいる訳ではないんですよ」という内心を圧迫する話法を公定することになってしまう。

本来、異なる音がひとつに介したときすばらしい音色となるのが「調和」であるとすれば、全員が同一行動を「軍隊」の行進のようにとるのではなく、それに対して手を合わせる人もいれば、手を合わせない人もいる、そしてどうでもいいやと思うひとがいるというほうが、字義にかなった「ハルモニア」になる筈だ。

そして、業務だから「内心の発露」を制限してもよい……というのは理由にすらならないわけなんだがorz

いやはや。








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