笑いにおける「茶化し、低俗化、ふざけ」について




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茶化しと低俗化
 日本の際立った現象として仏教用語が茶化されたり低俗化されたり、ふざけに使われたりすることが頻繁に起こった。最近でもそうだが、西洋で新しい哲学思想が流行するとすぐ飛びつくけれども、何年かたつと、きれいさっぱりと忘れ去ってしまうという、着せ替え人形のような現象が顕著である。そういう思想的な安易さがある。
 例えば「法師」という言葉がある。これは、釈尊の教えである教典を語って聞かせる人のことであある。それが、「起き上がり小法師(こぼし)」という玩具の名前としても使われている。これは、ふざけや、茶化しとは異なるが、本来の意味を見失わせるものであることには変わりない。
 あるいは「右繞三匝(うにょうさんそう)」という言葉がある。これは右回り(時計回り)に三ぺん回って合掌して敬礼するというインド独特の挨拶の仕方である。真ん中に人がいて、その人に右肩を向けて時計回りに三べん回る。中村先生によると、これはギリシア正教にも取り入れられていて、ギリシア正教では一回だけ回るという。ところが、これが日本では「三遍回ってワン」という人をからかう言葉になった。
    −−植木雅俊『仏教、本当の教え インド、中国、日本の理解と誤解』中公新書、2011年、130−131頁。

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「笑い」と一口に言っても様々な種類がありますが、まずはベルクソン(Henri-Louis Bergson,1859−1941)が指摘するとおりそれが「人間的」なものだから、対象について笑うのだろうと思います。

そして人間は笑うことによって、生活をより快活なものとしたり、明日への希望を紡ぐことができるのだろうと思います。

しかし、いろいろ笑いのなかで、ユーモアとか機知としてのウィットというものは、日本人はどうも苦手なようにみうけられるます。それよりも得意とするのは、対象を茶化し低俗化して笑うというスタイルになじみ部会のではないでしょうか。

もちろん、「笑う」という地平ではユーモアも茶化しも同じなんでしょうが、その性格や対象は著しく異なってしまうのも事実でしょう。

ユーモアの大きな特色の一つは、権力や権威を「笑い飛ばす」ところにあります。

それに比べて茶化しや低俗化で笑うといのは、対象が権力や権威ではなく、どちらかといえば自分よりも立場の弱い者や、社会的に低い存在に対して侮蔑としてなされる場合が多いのではないでしょうか。

日本語には「お上」という便利な言葉があります。
たとえば「お上には逆らえない」というフレーズがその代表ですよね。

そう、「お上には逆らえない」。
だから「お上」を笑い飛ばすユーモアなんて存在しないというわけ。そしてその逆に、「お上には逆らえない」から自分より立場の低い人間を「茶化」したり「低俗化」したりして、屈折したうっぷんをはらすというながれ。

たとえば、テレビなんかで若手芸人の「イタイ」映像を流して「笑い」をとるという心根もおそらく同じなんでしょう。

もちろん、笑うことにより、対象が「屁のつっぱりでもない」と思い直したり、暗い日常生活に一条の光明を差し込むことは可能になります。

しかし、そろそろ、茶化しや低俗化によってのみ笑うということは、限定的に使用した方が賢明なのではないでしょうか。

上のものには逆らえない。だから下のものをいたぶっていく。
そしてその構造が累積され、ルサンチマンは国家の負債のごとく膨大にふくらんでいく。
(古典的権力論を受容するわけではありませんが)、まあ、これでは支配しやすい構造は何ら変化しないと思います。

いまこそ、「笑い飛ばす」という知恵と勇気が必要なんじゃないでしょうか……ねぇ。

「お上」は決して「ありがたいもの」でも「逆らえない」ものでもないと考えます。



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