書評:高澤秀次『文学者たちの大逆事件と韓国併合』平凡社新書、2010年。




創業時代としての「明治」の「栄光」が「創造」される1910年(大逆事件日韓併合)。

高澤秀次『文学者たちの大逆事件韓国併合平凡社新書、2010年。


 本書は、大逆事件が文学者に与えた影響を概観する一冊だが、射程の広さと考察の深さで度肝をぬく労作だ。事件のインパクトは、1910年の前後だけでなく、昭和・平成の「御代」にまで続いている。そして日本人の作家だけでなく、朝鮮半島の作家にも、そして当時の日本の植民地化のひとびとに対しても影響を及ぼしていることを追跡する。石川啄木から村上春樹までだ。
 まず、大逆事件とは、天皇帝国主義であると著者は基本的視座を明確にする。事件によって天皇帝国主義は確立される。歴史を振り返るならば、その確立は、それに否を唱える「見えるもの」への対処へと起動する。しかし、対処が存在するということは「配慮」を必然させ、言及に対して遠慮するという心情を「見えないもの」にも醸成させるのは不可避である。それがまさに文学者たちに「枷」を嵌め、それは重圧となるのである。そして、大逆事件とは文学者に対する「文学的後遺症」をもたらすことになると同時に、贖罪意識は戦後日本文学の限界として表象されることとなる。
 奇しくも大逆事件と同じ年、韓国併合が行われている。両者が同じ年に起きたことは必然なのだろう。国家に優位な国民という標準の設定、そして、植民地の獲得……。共通するのは「特定のコード」の創造とそれに違反するものへの「暴力」の設定だ。それが「書く」という行為にどのような影響を与えたのか振り返ることは決して無益ではない。
 二つの事件以降、創業時代としての「明治」は「美化」の一歩を辿ることとなる。文学者のみならず、21世紀に生きる私たちも、その影響かにあるのかもしれない。
明治は確かに「成長」の時代であったのだろう。しかし成長のもつ「暴力」と「暗部」を引き受けない限り、呪縛はそのままなのであろう。

「あらゆる『理想』と『虚構』の『不可能性』を歴史的に隠蔽する『坂の上の雲』のような作品に、国民が熱狂していることが、おぞましく感じられた」と著者はいう。この「おぞましさ」の理解を促す一冊だ。しかもこれが「新書」というから驚きは2倍だ。

創業時代としての「明治」の「栄光」が「創造」されるのはまさに1910年の大逆事件日韓併合であることは間違いない。内と外の完成がここに収斂する。そしてそれが以降の思索と行動に対して「暴力」として発動されるのが歴史だろう。

余談ならが、司馬遼太郎坂の上の雲』が明治百年となる1968年に連載開始は偶然なのだろうか。そしてこの年のNHK大河ドラマは『竜馬がゆく』。ノスタルジーが絶えず都合のいいように創造されることも踏まえる必要があろう。1968年問題を問う小野俊太郎『明治百年−−もうひとつの1968』(青葉書房、2012年)を読む必要がある。

兎に角「三丁目の夕日」的なるものへの憧憬は権力が準備する。







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