「選択の余地のない唯一のアイデンティティという幻想」に抗する





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実際、世界における多くの紛争や残虐行為は、選択の余地のない唯一のアイデンティティという幻想を通じて継続されている。憎悪をかき立てる「技」は、その他の帰属意識に勝る卓越したアイデンティティと考えられているものの魔力を利用するものとなる。このような手段は都合のいいことに好戦的な形態をとるので、われわれが普段もっている人間的な同情心や本来の親切心も凌駕することができる。その結果は、泥臭い粗野な暴力沙汰にもなれば、世界的に策略がめぐらされる暴力事件やテロリズムにもなる。
    −−アマルティア・セン(大門毅・東郷えりか訳)『アイデンティティと暴力−−運命は幻想である』勁草書房、2011年、7頁。

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こないだからまとめてセン(Amartya Sen,1933−)の議論を追跡しています。

実際のところ、世界各地で頻発する対立と構想というものは、「選択の余地のない唯一のアイデンティティという幻想」を介して継続され拡大再生産されていることはセンの指摘を待つまでもなく、その通りです。

しかし、こうした対立は、TVで映し出されるどこか遠くの世界での出来事だけでなく、家庭や会社、友人関係においても発動しているのではないだろうか、とも推察されます。

センの議論を、恐らく他人事としての話題にしてしまうだとか、学者という偉い先生の議論だけですよ、僕たちにはあんまり関係ないんですよねー、という認識でこれを受容するととんでもないことになってしまうでしょう。

なぜなら、結局自己をどこに定位させ、豊饒な相手を一つの視点からのみ眼差すという意味では、どこにでも起き得るわけですから。そのことをスルーしているというのが実際の日常生活でしょう。

たえず多層的・重層的なわたしとあなたを見る流儀を身に付けることが必要不可欠なのですが、しかし、ひょっとすることこれまた難事なのかも知れません。

私事ながら、思い出すのは、数年前、お受験のために子供が専門塾に通っていたときの出来事です。

勿論、これは私の子供だけの話かもしれませんが、例えば、一つの物体を見た場合、別の方向から見るとどう見えるのか、という問題に対して彼が難渋していたことです。

喩えはよくありませんが、缶ビールを見た場合、どのようなイメージが表出するでしょうか。ヨコから見ると、長方形。上から見ると円形。斜めからみると……というかたちで表現していくわけですが、これが極めてニガテだった様子です。

こうした経験を振り返ると、人間の認識構造はある程度、ひとつの眼差しに慣れてしまうと、他の角度からものを見るということ、そしてその想像力というものが鈍磨してしまうのでは???と思った次第です。
そしてこれは、いうまでもありませんが、私自身においても例外ではありません。

思考実験として様々なものごとに対して……特に日常生活において「考えることに値しない」という事柄をあえて、自分で定義し直してみるというのは、一つの多層的な思索を身に付けるうえでは、重要な訓練になります。

しかし、それだけでなく、視覚や聴覚におけるそうした「訓練」というやつも意識的にしていくべきなのではないかと思った次第です。

「選択の余地のない唯一のアイデンティティという幻想」という奴は「このような手段は都合のいいことに好戦的な形態をとるので、われわれが普段もっている人間的な同情心や本来の親切心も凌駕することができる」ものですから、それに対抗するには、意識的な挑戦が必要なのだと思います。

缶ビールは確かに横から見ると長方形。しかし、それだけが缶ビールのすべてではないとすれば、様々な角度から見たイメージを書いてみる、想像する、といったたわいもない行為かもしれませんが、ひょっとすると役に立つのかも。そうすることで、一つの角度からしか見ないという眼差しを避ける、そして想像力の鈍磨を避ける一助になるのではないかと思います。













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