自分は旗印として平民主義を掲げるのではなく、平民主義を生きるのだ。頓智と諧謔で人間の平等を主張するのだ。


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 外骨も蘇峰のこの「平民主義」に強く共感している。「国民之友」が創刊された時に、すぐに買い求めてこれを貪るように読んだ。明治新政府ができて「四民平等」を唱えながらも、かつての「士農工商」の四つの階級は「皇族・華族・士族・平民」と形を変えて現に生き続けているではないか。四民が人間として平等にその権利を主張できるはずだった明治新政府発足当時の理念は、いったいどこへ消えてしまったのか。外骨は蘇峰が平民主義を掲げて「国民之友」を創刊する二年前から、自分の実印に「讃岐平民宮武外骨」と刻ませて使用している。「平民主義」は蘇峰より自分のほうが早いのだという自負が外骨にはある。だが、蘇峰や民権論者のように主義を旗印のように掲げるやり形はとりたくない。旗印は旗をかけかえることもできる。旗の色が褪せることもある。現に明治新政府の旗は、近頃だいぶ色褪せてきている。自分は旗印として平民主義を掲げるのではなく、平民主義を生きるのだ。頓智諧謔で人間の平等を主張するのだ。それが操觚者としての自分の生き方だ。外骨はそう思っている。
    −−吉野孝雄宮武外骨伝』河出文庫、2012年、115−116頁。

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担当する哲学の講座も前期は今日を入れるとあと3回で終了するので、そろそろまとめの時期に入ってきているのですが、やはり言及しておかなければならないのが「ヒューマニズム人間主義)」の問題です。

なにかがあると「人間が大事」「人間が根本」と脊髄反射があるのですが、それはたしかに「大事」で「根本」だとは思います。

しかし、人間そのものへの「絶えざる」洞察というものがなければ、それは単なる「主義」や「イデオロギー」として「固定化」された眼差しへと容易に転化し、「人間のため」という旗印が、人間を「毀損」することへとなってしまうことは、歴史をふり返れば証左に枚挙の暇がありません。

加えて、思想的にも、ホコリを払いながら書架からカントのアンチノミーの議論を引っ張りだしてくれば「人間とは何か」という探究が短絡的に「Aである」と「断言」された瞬間に「非A」は「人間ではない」という事態が不可避となってしまう。

だからといって答えの出ない探究が無駄というわけではないし、結局は今自分自身がもっている「人間観」を絶えず更新していくしかない。

「これだ!」と後生大事にしているものが年月を積み重ねて行くにつれ、それは劣化や色あせが必然となる。ならば、生身の人間世界という「応戦」との相即関係のなかから、自分自身の人間観を固定化させずに、たえず新たなものへと転じていくしかない。

そんな話をしたわけですが、じっさいのところ、旗を立てることが全て無益だとはいいませんし、自身の立場を明らかにすることは場合にもよりますが必要なことでもあります。

しかし、旗を立てることによって、そのひとがそのひとであることが証明されるわけでもないし、旗そのものへの洞察がない場合、それは人間から遠くへいってしまう。

ここだけは、どこかで念頭に置くべき事柄なんじゃないかと思うわけなのですが……。

ここらへんの内発的な思想的格闘戦というものが「省略」されてしまうと、ホント、ろくなことはないと思います。

いいかたはわるいかもしれませんが、ごちゃごちゃ先鋭化した議論だけ続ける人間よりも、そのひとの心身ともにわがことのように心配する無名の庶民ほど、人間主義者っていうのは他にはいないとは思う。

大きな問題を自身の問題ととらえ、それを身近な日常生活のなかで再発見し、そして身近な日常生活のなかでの違和感が、実は大きな問題とつながっていること。

旗印をたてるよりも、そのことを喝破しながら、自身のとりくみという生き方を選択するほかないですね。


ただ、その心根がなんらかの形で利益誘導されることには違和感はあるのだけどネー。












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