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日記:アーレントなにそれ美味しいの?

私の場合、これまで学問の世界でも、生活の世界でもほとんど同じ「言葉」を使っていて、それがひとつの矜持、ないしは私の個性になっていたと思う。しかし、最近、日常生活の中では、自由や平等、人権のような、例えば学問で使うような概念を、なるべくその…

日記:「良いお年を」ということに関して

大晦日の夕刻、職場で同僚と「良いお年を」と言い交わして家路につく。明日も仕事なので、また顔を合わす相手だから、その「社交辞令」を内心では「今さら」などと苦笑いしながらも、そう言えば大晦日に「良いお年を」と言い交わした「その後」、果たして「…

日記:しっかりとものを考えた思想家の本をはじめから終わりまで読み通し、その文体に慣れ、その思考を追思考すること

- 思考の訓練 普通の人間にとってものを考えるということは、そう容易なことではない。目をつむって、さて何かを考えようと思っても浮かぶのは妄想のたぐいであろう。ものを考えるには特殊な訓練が必要である。その訓練として私に考えられるのは、しっかりと…

覚え書:「吉野作造とキリスト教 企画展始まりオープニング講演会」、『大崎タイムス』2014年05月28日(水)付。

- 吉野作造とキリスト教 企画展始まりオープニング講演会大崎市古川吉野作造記念館 8月3日まで企画展民本主義の根底にあった教え 「全ての人は神の子」大切に 講師の氏家氏が「関わり」語る 大崎市古川の吉野作造記念館の20周年記念企画展「吉野作造とキ…

日記:吉野作造記念館開館20周年記念特別展「吉野作造とキリスト教」

宮城県大崎市の吉野作造記念館開館20周年記念特別展「吉野作造とキリスト教」が5月25日(日)より開催されます。25日のオープニング講演会を私が担当します。戦前日本のキリスト教史において吉野作造の信仰は希有な足跡を残しました。そのアクチュアリティ…

日記:「人生とは個性的に価値あるものと信じて疑わない」からこそ

- アテナイの政治社会へ与えた波紋もさることながら、ソクラテスの登場は、当時の精神的状況を鑑みると、随分な驚きだったのだそうだ。今日でこそ人々は、古くさい日めくりの格言などこころの表面をかすめ去ってゆくにすぎないほどに、人生とは個性的に価値…

日記:2013年度卒業式:最小限の変革共同体としての学友関係

- 「では、つぎにわれわれが探求して示さなければならないのは、思うに、現在もろもろの国において、われわれが述べたような統治のあり方を妨げている欠陥はそもそも何であるか、そして、ある国がそのような国制のあり方へと移行することを可能ならしめるよ…

日記:コロンビア大学コアカリキュラム研究会(2) アリストテレス『ニコマコス倫理学』

- かくしていま、およそわれわれの行うところのすべてを蔽うごとき目的−−われわれはこれをそれ自身のゆえに願望し、その他のものを願望するもこのもののゆえであり、したがってわれわれがいかなるものを選ぶのも結局はこれ以外のものを目的とするのではない…

日記:人間を「無効化」しようとする仮象にすぎないマモンへの永続的な抵抗

- 貧困で、無智で、社会情勢に暗い日本の農夫が田畑から引き離され、仏教の本義を教えられることはなく、偶像に犠牲を強いられることを教えられている。一方、ロシアのツーラ地方もしくはニジニ・ノブゴロド地方の貧困で無教養な人々が、キリスト教の本義は…

日記:コロンビア大学コアカリキュラム研究会

- 「ところで、そのうちまず優秀者支配制に対応するそれと相似た人間については、われわれはすでにこれを詳しく論じたが、このような人間を善くかつ正しい人間であると、われわれは正当に主張するのだ」 「ええ、すでに論じました」 「そうすると、つぎにわ…

日記:智慧とは「人間をして、瞬間による支配から離脱せしめるもの」

- 智慧というもののもつ最も重要な要素は、それこそが、人間をして、瞬間による支配から離脱せしめるものだ、ということである。それ故に、智慧は、時代に適うものではないのである。智慧の意図することは、人間をあらゆる運命の打撃に対して直ちに確乎たる…

日記:人生や仕事での主要な関心は、当初のわれわれとは異なる人間になることです。

- −− あなたは、ごく頻繁に「哲学者」、のみならず、「歴史家」、「構造主義者」、「マルクス主義者」と呼ばれています。コレージュ・ド・フランスにおけるあなたの担当講座の肩書は、「思想体系の歴史の教授」です。このことの意味は何でしょう? わたしが…

日記:八王子倫理学会?

水曜日は、通信教育部で教鞭を執っていたときの、受講生とかるく一献してきました。いやー、ひさしぶりにいい酒を酌み交わした時間を過ごすことができ、ありがとうございました。通信教育部は、卒業を勝ち取るためには、レポート作成が要となりますから、ほ…

日記:なごやまつり

さて……。 8月3日の土曜日。 家族旅行で名古屋を訪問しましたが、その日の夜は、少し時間を頂き、古い友達、そして新しい友達と歓談する時間をつくることができました。皆様、お忙しい中、時間をさいてくださりありがとうございました。しかしびっくりのす…

他の人に考えてもらうことを辞めることと、ほんの少しの想像力。

1年生の倫理学の講義が水曜日にて終わりました。いろいろとお話をしましたが、結局は他の人に考えてもらうことを辞めることと(勿論「自分で考える」と言ってもそれは孤立した私ではないのだけど)、ほんの少しでいいから想像力を持ちあわせることに尽きる…

「われわれはなにもかもが人間の尺度にあわない世界に生きている」からこそ。

- 数世紀におよぶ進化をとげたあげく、われわれの時代になって近代文明がとるにいたった形態ほど、これまで述べてきた理想にいちじるしく逆らうものは、まずもって構想不能である。個人が偶然まかせの集合体にかくも完璧にゆだねられたことはなく、おのれの…

快楽に負けることは何を意味するかというと、それは結局最大の無知にほかならないことになるのである

- 『では、これがどのような技術であり、どのような知識であるかということは、あらためてまた考察することになるだろう。しかし私とプロタゴラスとが諸君の質問に関連して行わなければならない証明のためには、それがとにかくひとつの知識であることだけわ…

個人と社会という二レベルのHACSの関係を考えること

- コミュニケーションとプロパゲーション HACS(引用者注……「階層的自律コミュニケーション・システム(Hierarchical Autonomous Communication System)」というモデルをつかうと、情報や知識の伝達や蓄積を論じることができる。 すでに述べたように、…

語る対象が最初からあるのではなくて、大勢の人がある現象に注目して、それについて語るようになる

- 一般論として、学が産に協力すること事態は頭から断罪はできない。世の中の財を産がつくっている以上、そこに学が貢献することは、巨視的には公共のためになるはずなのである。ただ、問題は貢献の仕方なのだ。私企業の短期的利益のためだけに、大学の教育…

「伝統というものは常に歴史的につじつまのあう過去と連続性を築こうとするものである」から、その馴化の薄皮を剥がしていく「ゆるふわ」な時間について

- 起源の捏造・伝統の創造 なぜ、女ことばの起源についての言説が発生し、このように価値づけされた女房詞や敬語が持ち出されたのでしょうか。それは、女ことばを「日本が古くから保ってきた伝統」と位置づけるためです。「伝統は創り出される」という視点を…

1名から100名への道(ぇ

水曜日は前期集中ですが千葉の短大にて「倫理学」を担当しておりますが、今週から授業が始まりました。昨年は6名の履修でしたが、今年の初講は……ガイダンスになるので登録はまだ……100名近くの学生諸氏が参加しており・・・「びっくら」こいた次第です。…

キャンパスの花々

このところ、ものすごく忙しく、なかなか更新できずすいません。 先週の金曜から授業も始まりましたの、キャンパスの花々でもひとつ。

おどろきの神経内科・外科神学

4月1日の新年度より、看護助手の仕事をはじめました。昨日で2日目。 神経内科・外科の担当ですが、まさに患者さんの入院生活を清潔・快適に保ち、医師・看護士がスムーズに仕事ができるように「準備の準備」をする仕事といえばいいでしょうか。医療の世界…

第27回卒業式、おめでとうございます。

- ――ただ気の向くままに―― おおそうだ。気の向くままに放浪さえしていれば、俺には希望があった、光明があった。放浪をやめて、一つ土地に一つ仕事にものの半年も辛抱することが出来ないのが、俺の性分であった。人にコキ使われて、自己の魂を売ることが俺に…

知識や経験の蓄積を通して行為をすること、そしてもうひとつは、蓄積することなく、生きるという行為のなかでつねに学んでゆくこと

- ……私たちが話しているのは二つの種類の学ぶことについてです。ひとつは知識や経験の蓄積を通して行為をすること、そしてもうひとつは、蓄積することなく、生きるという行為のなかでつねに学んでゆくことです。片方は技術的なことには絶対に必要なものです…

智を愛すること、すなわち真の哲学の姿

- 哲学は英語でフィロソフィーと言う。ソフィーは古代ギリシャ語のソピア、ラテン語のソフィアに由来して「智」を意味し、ギリシャ語のフィロスは「愛する」とか「求める」という意味なので、哲学は「愛智」の学と言い換えることができる。今回の講義は、視…

「これから講義を始めます。体の具合が悪いのでこのままで失礼します」

- 中村元先生の“最終講義” 中村先生が亡くなられたのは、一九九九年一〇月一〇日のことだった。享年八六歳。猛暑で倒れられた先生は、亡くなられる少し前から昏睡状態が続いていた。そんなとき、先生の口から「これから講義を始めます。体の具合が悪いのでこ…

「観る」とはすでに一定しているものを映すことではない。無限に新しいものを見いだして行くことである

- 「観る」とはすでに一定しているものを映すことではない。無限に新しいものを見いだして行くことである。だから観ることは直ちに創造に連なる。しかしそのためにはまず純粋に観る立場に立ち得なくてはならない。 −−和辻哲郎『風土』岩波文庫、1979年、106…

これらの習慣がある特定の政治権力のために奉仕するからではなく、公共福祉のすぐれた原動力たりうる健全な習慣だから

- それゆえ、教育は、児童に対して、早くから次のことを認識させねばならない。すなわち歴史によって弾劾を受け、今日もなお受けつつある因襲的、人為的な限界のほかに、われわれ各人の人間性に深く根ざした、自然的な限界が存在するということである。それ…

本来的な意味での〈語ること〉は、どんな対象よりも先に他人に対して口を開ける意味することであって、諸記号の交付ではない。

- 〈語ること〉、それは隣人に接近し、隣人に向けて「意味することの口を開く」ことである。このような〈語ること〉は、説話として〈語られたこと〉のうちに刻印される「意味の給付」に尽きるものではない。本来的な意味での〈語ること〉は、どんな対象より…