個人の魂を、彼らの社会が変わるように変えていかなければならないが、他面においてその個人の魂が変わるためには、私は社会をも変えるように努めなければならない







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 一面において私は個人の魂を、彼らの社会が変わるように変えていかなければならないが、他面においてその個人の魂が変わるためには、私は社会をも変えるように努めなければならないのである。それゆえ私は失業やスラムや経済的不安等の問題にも関わらねばならない。私は根っからの社会的福音の鼓吹者である。
    −−クレイボーン・カーシン編(梶原寿訳)『マーティン・ルーサー・キング自伝』日本基督教団出版局、2002年。

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大きな事柄に関わるひとは、大きな事柄のみに関わり、小さな事柄に関わるひとは、小さな事柄のみに関わることが多い。

そしてお互いに、侮蔑し合うという不幸が人類の歴史にはあまた散見される。
大きな事柄に関わるひとは「意識の高い人」を自認し、小さな事柄に関わるひとを「後退」とみなし、小さな事柄に関わる人は、大きな事柄に関わる「意識の高さ」に辟易としてしまうといいますか。

しかし、その二律背反というものは、いわゆる権力の当事者にとってはそれが都合のいい形で機能してしまったように思われる。

大きな事柄も、小さな事柄もそれはひとりの人間に属する事柄であって、別々の事象ではない。否、もっとそれは相互に複雑に関係性を織りなし、人間世界を形成しているのではあるまいか。

悪の本質とは、いろいろとそれを指摘できるでしょうが、そのひとつは何といっても「分断」にある。もちろん、身をただすということは出発点として必要不可欠であることはいうまでもないが、「人間」を基本に据えた場合、小異に目を瞑ると同義ではないものの、排除や分断によって細分化していくことは、それぞれが向かいあう対象を増長させていくものだということは踏まえる必要があろう。

キングはバス・ボイコット運動の一指導者として社会運動史上にその一歩を踏み出すこととなる。しかし、その後の展開は、先鋭化した分断ではなく統合・連帯であったとことは想起すべきかもしれない。深嶺の草葉の一滴の朝露は、やがて人種の問題を越えてあらゆる不正・不義への挑戦となる大海へ拡大していく。

魂と魂の生きる世界は別々のものごとではない。








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