「自信過剰、狂信、強烈な劣等感、ときに病的なほど強くなる一等国へのこだわり」としてのオリンピック



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東京オリンピックでは……引用者補足)メダルもたくさん獲得した。金メダルの数は十六で、これはアメリカとソビエトに次ぐ三番目の成績だ。日本国民は競技の成績にこだわっていたが、そのこだわりは必要以上に強すぎたように思う。マラソン円谷幸吉とハードルの依田郁子は、国民の期待に応えられず、後に自殺している。特に哀れなのは円谷で、競技場には二位で帰ってきたものの、ゴール直前、悲鳴を上げる母国の観衆の目の前でイギリス人選手に抜かれてしまったのである。銅メダルを手にしたとはいえ、そんなものは何の慰めにもならなかった。
 日本人は、自分たちが何等国かを常に意識してきた。そうした日本人にとって、スポーツでの勝利は敗戦の記憶を癒す手段の一つだった。
    −−イアン・ブルマ(小林朋則訳)『近代日本の誕生』ランダムハウス講談社、2006年、11−12頁。

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先日も言及したとおり、近代オリンピックは、必ずナショナル・アイデンティティに収斂されていくし、それが包摂性をいかに装おっていようが、勝他の念は、排他的なものとして必然されるから、このからくりを認知しないレベルにおいて、単純に、

「がんばれ、ニッポン」

……ってやらないし、基本的には見ない。

そこで活躍するのは個々のアスリートひとりひとりの勇姿・奮戦であって、そこにレプリゼントとしてのナショナル・アイデンティティはそもそも容喙するものではない。

見るなら、それだけを見ればよい。人間が卓越したアスリートをリスペクトする視座であれば問題はないのであろう。

しかしながら、「おい、なんで、てめぇ、日本を応援しねぇんだ」って輩も沸いてくる。そういう御仁というのは、日頃はスポーツにほとんど関心がなく、クラブチームや個々の選手の努力を継続的サポートする気もさらさらなく、結果にだけ注視し、自信過剰に酔いたい手合いというのが常道でしょう。

しかし、それ以上に「おい、てめぇ」って噛みついてくるのがメディアであったり、政治家であったりするから驚くし、市井のひとびとが「おい、てめぇ」以上に恫喝してくることにはあきれかえってしまう以上に、もはやそれは「犯罪」ではないのかと恐怖してしまう。

8月1日付の『産経新聞』掲載の『【末代までの教育論】五輪で金メダル獲っても噛むな特集:末代までの教育論 野々村直道(前開星高校野球部監督)』では、「国に殉ずる覚悟で闘え!」と絶叫し、「円谷幸吉」たれと、選手に鞭を打つ。

冒頭では、イアン・ブルマの近代日本論からの引用ですが、円谷幸吉自死たらしめたのは誰か。国家であり、そのイデオロギーを吹聴したメディアであり、そしてそれに動員された一人一人の国民である。

こんな再現はまっぴら御免だ。

さて、1964年の東京オリンピックより「柔道」が新たな種目として加わることになる。JOC(日本オリンピック協会)は開催国の権限を利用して採用させるわけだが、柔道には日本古来の競技ゆえに日本人がメダルを取りやすいこと、そしてもう一つは、技が腕力に勝ることが「ウリ」の競技だからだ。西洋の大男相手に小柄な東洋人がそれをひねり倒す。そしてその妙味には、かならず精神世界が関与するって寸法でしょう。

JOCは入念に、体重別の「級」のほかに「無差別級」を導入する。

こうした経緯をみると、そろそろ自分たちの実力をもっと伝統的な形で見せつけたいという思惑の発露。まるで自分のしゃべっている声を自分で聞きたいという感でもある(デリダ『声と現象』)。

さて、今回は、男子柔道はメダルが0になったという。

どうでもいい話だし、個々人は奮闘した、ただそれだけのことである。
尊大も卑下も無用だ。

しかし、ここにのっかかる政治家も「沸いて」くる。

すこし前後するが、それは石原慎太郎東京都知事である。

3日の記者会見にて「西洋人の柔道ってのは、けだもののけんかみたい。(国際化され)柔道の醍醐味ってどっかに行っちゃったね」……なのだそうな。

東京オリンピック柔道無差別級決勝はオランダのA・ヘーシングと神永昭夫の熱戦となった。僅差する奮戦の末、ヘーシングが勝利する。オランダ人たちは英雄を讃えようと畳に駆け上がろうとするが、ヘーシングはそれを制止し、神永の方を向くと礼をした。

「西洋人の柔道ってのは、けだもののけんか」っていう都知事こそけだもののような気もする。

私が日本人であることを「背負っているもの」として「廃棄」することは不可能だ。それは偶発性にすぎないものであったとしてもである。そう偶発的に「背負っている」。

しかし、そのことがらを自覚して、体制のいいように「収斂」されていくことを避けつつ、ひとりひとりの人間を「まなざしていく」ことは可能である。

オリンピックはその意味では、メッキが剥がれたり、正体の出てくるいい機会だと思う。

「自信過剰、狂信、強烈な劣等感、ときに病的なほど強くなる一等国へのこだわり」(ブルマ、前掲書、15頁)こうした呪縛を認識するほかありませんワ(涙



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【末代までの教育論】五輪で金メダル獲っても噛むな
特集:末代までの教育論 野々村直道(前開星高校野球部監督)
 「父上様母上様 三日とろろ美味しうございました。干し柿もちも美味しうございました」

 こう始まる遺書を残して円谷幸吉選手は自らの命を絶った。

 1964(昭和39)年の東京五輪。マラソン(当時は男子のみ)で銅メダルを獲得、日本中を沸かせた男である。

 国立競技場に、先頭のアベベに続いて入ってきた円谷選手はトラック内でドイツのヒートリーに抜かれ銅メダルに終わる。最後の最後に抜かれたが、彼は一度も後ろを振り向かなかった。父親から「男は後ろを振り向くな!!」と言われ続けてきたからだという。

 東京五輪最終日に展開されたこの劇的なドラマは、中学1年生であった私に鮮明な記憶として残っている。特別に華々しいパフォーマンスをすることもなく淡々と表彰台に登り、少し照れ臭そうに優しく手を挙げて大観衆に応えていた。開催国日本の陸上界唯一のメダルであった。

 そして、期待と重圧の中で迎えた4年後のメキシコ五輪、68(昭和43)年の新年に人生を終えた。享年27。遺書は兄姉や親戚の子どもたちに語りかけたあと次のように締めくくられる。

 「父上様母上様 幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒お許し下さい。気が休まる事なく御苦労、御心配をお掛け致し申し訳ありません。幸吉は父母上様の側で暮しとうございました」

 彼が陸上自衛隊所属であり“国家の為”を強く意識していたとはいえ、この責任感と自尊心の美しさは何なのだろう。

 国を守るため毅然として死地に赴く特攻隊員と似たものを感じる。自殺と呼べば簡単だが、これは“走れない”ことで国家に迷惑をかけるという武士道の“恥”の概念からの「切腹」と同意である。

 ロンドン五輪が始まった。野々村から十箇条の応援メッセージを発信する。

 一、選手よ! 自分のためだけに闘うなかれ!

 二、国家の栄誉と誇りのために闘え!

 三、国に殉ずる覚悟で闘え!

 四、国を代表しているのなら国旗と国歌に真摯に向かえ!

 五、斉唱中に体をゆすったり首を回したりするなかれ!

 六、国旗国歌に敬意を示さぬ者は国民でもなく代表でもない!

 七、最高の栄誉である金メダルを獲ってもメダルを噛むなかれ!(メダルは名誉ある勲章)

 八、拳拳服膺(けんけんふくよう)して厳かに振る舞え!(こころの扱い方で物にも品格は生まれる)

 九、民族としてその精神性を世界に示せ!

 十、日本人として振る舞い世界にその格調を知らしめよ! (毎週水曜日掲載)
    −−「【末代までの教育論】五輪で金メダル獲っても噛むな 特集:末代までの教育論 野々村直道(前開星高校野球部監督)」、『産経新聞』2012年8月1日。

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http://www.sanspo.com/geino/news/20120801/sot12080105010000-n1.html



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石原都知事「西洋人の柔道はけだもののけんか」

 東京都の石原慎太郎知事(79)は3日の定例会見で、ロンドン五輪で柔道勢の苦戦が続いていることについて「西洋人の柔道ってのは、けだもののけんかみたい。(国際化され)柔道の醍醐(だいご)味ってどっかに行っちゃったね」と話した。「ブラジルでは、のり巻きにチョコレート入れて食うってんだけど、これはすしとは言わない。柔道もそうなっちゃった」と述べた。
    −−「石原都知事『西洋人の柔道はけだもののけんか』」、『スポーツ報知』2012年8月4日。

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http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20120803-OHT1T00324.htm











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