覚え書:「今週の本棚:堀江敏幸・評 『建築を考える』=ペーター・ツムトア著」、『毎日新聞』2012年08月12日(日)付。



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今週の本棚:堀江敏幸・評 『建築を考える』=ペーター・ツムトア著
 (みすず書房・3360円)

 ◇遅れの感覚として美を表現するために
 子どもにとって、自分の家は建築物ではない。日々の細部を豊かにする五感が漠然と連なって形作られた、ひとつの集合体である。スイスの建築家ペーター・ツムトアが設計に際して立ち返るのも、「建築についてあれこれと考えないまま建築を体験していた」幼年期の記憶だという。たとえば伯母の家の庭に入っていくときに握ったドアの把手(とって)の、「スプーンの背のように滑らかな丸みをおびた一片の金属の感触」。それを甘美な過去へのノスタルジーにとどめず、新しい空間の創造に生かすのが、建築家の仕事なのだ。
 本書は、一九八八年から二十年ほどのあいだに各地で行われた「講演原稿」を中心に編んだものである。公的な場で、聴衆を前に声を通して届ける言葉の、そのまた原型ということになるだろうか。厳密な論考ではないから、それらはときに軽いエッセイのリズムをまとい、ときに散文詩を思わせる自在さと緊密さを示す。家族の名を出すことで、手紙のような親しみを感じさせる頁(ページ)もある。並べられた言葉の手触りは、どこかプルーストの小説の一節のようだ。
 ただし、一文一文にはよけいな飾りがなく、理の芯が通っている。先に散文詩と評したのは、言葉の質よりも、運用の仕方によって生じた効果のほうが問題だからである。「素材は、具体的な建築のコンテクストのなかで詩的な特質をおびることができる、と思う」。そう記すツムトアの視点は一貫している。
 建物じたいは詩的ではない。予想していなかった瞬間にやってくる詩のような情感を受け入れる可能性を秘めているのが、建築なのだ。足りないものが、欠如があって、はじめて詩はやってくる。それを味わったときに、ああこれを忘れていたのだと悟らされる、遅れの感覚としての美。芸術の美は「曖昧なもの、閉じられていないもの、不確定なもの」に宿るとしたのは、ジャコモ・レオパルディだった。ならば建築はそれを、どのように表現しうるのか。
 ツムトアは、イタロ・カルヴィーノによる解釈を援用する。レオパルディは曖昧さに到達するため、「あらゆるイメージの構成に、ディテールの細密な定義に、物や照明や雰囲気の選択に、おそろしく厳密で衒学(げんがく)的な注意を要請する」のだと。曖昧さを極めるには、厳密でなければならない。それは辛抱強く細かい仕事を大切にするということとはちがう。多様性や豊かさは、物を正しく認識し、「正当に遇するとき」に、こちらではなく物のほうから、自然に語り出されるということなのである。
 確かな観察を積み重ねながら、それを分析したり解釈したりする代わりに、対象の側からの語りかけを待つ。詩語に頼るのではなく詩と呼ばれるものを信じて、物の細部を蔑(ないがし)ろにせず、相互関係のなかで考える。ツムトアはレオパルディの教えを、アキ・カウリスマキの映画にも見出(みいだ)している。曰(いわ)く、彼は役者をコンセプトのために利用しない。映画のなかに置いて、「その尊厳、その秘密」を観客に感じさせる。結びはこうだ。「カウリスマキが映画を作るように家を建てることができたら、どんなにかすばらしいだろうに」
 ペーター・ツムトアは、これまでピーター・ズントーと表記されてきた。原語に準じたこの変更は、同じ建物の裏表を交換する魔法に等しい。濁音の重さを取り払ったことで、建築資材としての言葉の「含水率」が変化し、より軽やかになった気さえする。簡易フランス装、函(はこ)入りの「風景」も愉(たの)しみたい。(鈴木仁子訳)
    −−「今週の本棚:堀江敏幸・評 『建築を考える』=ペーター・ツムトア著」、『毎日新聞』2012年08月12日(日)付。

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