大学の建物の正面に掲げるべきは、《教育と研究のために》ではなく、《至高の教育としての研究のために》という標語であるべきでしょう。


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 第三の点、これを私はゲルマン的と名づけたいのですが、しかしこれについては、私はいくつかの激しい反駁にさらされなければなりませんでした。−−私は大学というものは他の教育施設とは根本的に異なったものであると考えています。大学の建物の正面に掲げるべきは、《教育と研究のために》ではなく、《至高の教育としての研究のために》という標語であるべきでしょう。大学で学ぶ者が努力すべきことは、すでに出来上がった知識の習得ではなく、知を拡充することなのです。
 患者をただ教科書どおりに治療するような医者は、医者ではありません。どんな患者からも、医者はそのつど新たな研究目標を受け取り、その知識を拡充してゆくべきです。同じ事は、依頼人一人一人の問題を、そのつど新たな法律上の問題として捉えるべき法律家についても言えます。また、このような要請は、もちろんあらゆる聖職者にも当てはまるものです。聖職者は一人一人の人間の魂が、神と直接つながるものであることを自覚していなければなりません。聖職者の務めは、この上ない畏敬の念をもってこれらの魂に耳を傾けることであって、陳腐なお説教をして信徒を退屈させることではないあのです。
 ところで、こうした知の拡充は研究の自由なしにはありえませんが、しかし私のロシア人の同僚からは、これには激しく反対しました。彼らはその理由として、何よりも哲学のことを引き合いに出し、ロシアの青年たちをたぶらかして危険な道に迷い込ませたのは哲学であり、あらゆる国家の基盤を揺るがすニヒリズムは哲学のせいだと主張しました。
 私は彼らに対して、哲学というものは生命に対する自分勝手な要請を理論的に正当化するようなものではなく、逆に生命が個々人に対して要請するところを、ある神的な力として開明するものだということを説明しようとしましたが、いくら説明しても聞き入れられませんでした。
    −−ヤーコプ・フォン・ユクスキュル(入江重吉・寺井俊正訳)『生命の劇場』講談社学術文庫、2012年、30−31頁。

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環世界説を提唱し、機械論的な生物行動を批判したユクスキュルの『生命の劇場』が文庫収録されましたので、昨日からぱらぱら読み始めました。

一見すると「小説か?」と見まがう文体で、ひとびととのやりとりや自身の省察から議論が進んでいくのに驚きます。ちょうどその本の冒頭で「大学の使命」について言及がありましたので、ひとつ紹介しておきます。

ユクスキュルによれば、大学とは「教育と研究のために」存在するわけではなく、「至高の教育の研究のために」存在することに意義があるということです。

そしてそこで学ぶ者が努力すべきこととは、「すでに出来上がった知識の習得ではなく、知を拡充すること」と指摘しております。

そして、医者、法律家、聖職者におけるあり方をとりあげ、その議論を具体的に説明しております。

確かに大学が他の教育機関と異なるのは、「教育と研究」という二つが内在するからに他なりません。しかしそれは、結局別々の事柄ではなく、深く相関しあっているものであるとすれば「至高の教育の研究のために」存在することに意義があることは間違いないでしょう。

たしかに今日の大学世界だけでなく、かつてもそうですが、「教育」と「研究」は、別々のものとして「立て分け」られて受容されてきたことは否めません。

しかし、今日では、様々な「評価」とか「見える化」によって、その二律背反はますます深まるばかり。吹けば飛ぶような非常勤に過ぎませんが、自分自身のことがらとしても「至高の教育の研究」のために、その生業が成立するよう努力するほかありません。

さて……。
昨日は、通信教育部在籍時代の「倫理学」受講者たちと一献。
さまざまとつもるお話や近況を讃え合うことができました。
皆様、遅くまでありがとうございました!












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