強制こそ、人からの愛や尊敬を得られなくしてしまう手段だということに、そろそろ支配者たちは気づくべきです






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問題の本質は何なのか
 −−そういう意味では、強制への異議中立には意味があると思いますか。
 「予防訴訟の原告の中には、いろんな反対論の人がいますが、かつての侵略戦争の象徴だったからとか、キリスト者として受け入れられないというのは分かりやすい。中に、「君が代」が大好きで率先して歌っていたけれど、それを強制して、抵抗したら処分ということになるのは許せないと、原告になった先生がいました。私の思想・良心の自由と同じように、あなたの思想。良心の自由も守るよというのが民主主義であり、その反対のことがあってはならない。この人は、そう考えたんです。私は、これが大事だと思う。だから、「日の丸・君が代」のいい/悪いの話にしてはいけない。それは問題の本質じゃないんです。
 「日の丸・君が代」がそんなにイヤなら代案を出せ、別の国旗・国歌を提案したらいいじゃないかという意見があります。『歌わせたい男たち』の中で、不起立の先生に言わせましたが、たとえ国民主権を高らかに謳う国歌ができたとしても、それを学校で押しつけて、「君が代」好きで民主主義の歌は歌いたくないという先生を処分するのなら、今と何も変わりません。ここを混同しないためにも、「日の丸・君が代」の是非とは別に、強制をもっと問題にしなくてはいけないと思いますね。夫のスーツを見上げてラブソングを歌うことを義務づけられた妻は、夫への自発的な愛情からどんどん遠のいていくでしょう。強制こそ、人からの愛や尊敬を得られなくしてしまう手段だということに、そろそろ支配者たちは気づくべきです。
    −−田中伸尚『ルポ 良心と義務 −−「日の丸・君が代」に抗う人びと』岩波新書、2012年、226頁。

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冒頭の引用は、良心を「義務」の名目の元に踏みにじっていく話題のルポルタージュの末尾付け加えられた、永井愛さんのインタビューです。

永井さんは、7年前に、このコメディを仕掛けた永井さんは、「歌わせたい男たち」で、日本の教育現場を笑い飛ばした。強制の問題をどう捉えるか。短文ながら本質をついていると思う。

正味の話、「いい/悪い」の二分法を越えて、自覚しなければならない「構え」というものは存在すると思う。そのひとつが、「強制」の問題であることは議論の余地のないことだろう。

「日の丸」「君が代」が糞だという話は、歴史的経緯として筋が通る。しかしながら、それを……たとえば……廃棄した後、新しくなにがしかが制定された時代において、その新しい国歌なり国旗が強制されてしまうと糞だし、それは、国歌や国旗だけの問題ではないと思う。

付言すれば、だからといって、日本の歴史における罪性をスルーしていいというわけではありませんので念のため。真正面からその枠組みを問い直す議論においては、ダブルバインドを自覚する必要は不可欠ですが、この国の精神風土は、それ以前の問題として、何か機会があるたび、そんな「罪性なんてなかったのよん」って嘯きますから、永井さんが指摘するように、それはそれとしながらも、僕自身としては、簡単に「エポケー」はできないとは思う。その一連の省察を無し終えてからの議論というのが精確な消息でしょう。

さて、戻ります。

だから、私たちが気に掛けなければならないことは、「それはネェ、みんながやっているンだから、やったほうがイイ訳ヨ」式のソフトな同調同圧には敏感になった方がいいと思う。


もうねぇ、みんなで赤信号渡ったら、みんな車にひかれてしまいますよ。



『謳わせたい男たち』永井愛
今月の戯曲:永井 愛『歌わせたい男たち』 | Performing Arts Network Japan




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