時代の切断は私たちが「事件」をそれ以前から続く「生活」との連続性において捉え直す中で自ら作り出さないかぎり、生まれない。



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 被災者にとって、被災地は「生活」の場だが、それ以外の者にとって、被災地は「事件」の場だ。「事件」の現場と思って赴くと、そこには「生活」がある。あたりまえのことに不意に衝かれる感覚。阪神・淡路大震災という事件が、地下鉄サリン事件という新たな事件に取って代わられたように、「事件」はつぎの新たな「事件」に取って代わられる。被災地外は「事件」から「事件」へと飛び移るが、被災者は、どれだけ物理的に移動しても、それぞれの「生活」から離れることはできない。被災地と被災地外とのさまざまなギャップは、ここに起因する。
 今回の大災害が、さまざまなものの転機になってくれればと私自身も思う反面、壮大な文明史観を持ち出すような前のめりの言説に違和感を抱くのは、それが「事件」の切断面にのみ着目しているように見えるからだ。
    −−湯浅誠「被災地には生活が続いている−−『復興』への視点」、内藤克人編『大震災のなかで  私たちは何をすべきか』岩波新書、2011年、213−214頁。

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あんまり言及したくはなかったのですが、やはり雑感として残しておきます。

たしかに現実の政治が、もうむちゃくちゃで、それをマネジメントする政治家やその背景に見え隠れする官僚たちのていたらくぶりには、もう「なにがなんだか」となってしまうことは否定できません。

また、震災や原発事故に関しても、東京電力株式会社と政府やその他諸々のコングリマリットの声を「スルー」するやり方には、涙もちょちょぎれない次第であることは謂うまでもありません。

それらはたしかに現在進行形の事件であり、「なんじゃコリゃア」と思わざるを得ません。

だから「ゴルァ!!!」ってなるのも承知の介ですが、果たして「ゴルァ!!!」って「言及」するだけで、事象の改善も行われないわなーというのも実感なんです。

勿論、これまで「わたちは無関心のノンポリなので、すべてどーでもいいんですよん」式のソレいうまでもなく論外でしょうが、『一般意志2.0』時代の「総言及」化というものも、実際のところは、なにかを変化させよう、なにかを守っていこう、という意味では、実際のところあんまりうまく機能しないのではないか、と感じてしまうんですね。

だからといって、そういう問題に対して「No!」と声を上げることが「無駄」だということではありませんし、それは大事なんだろうとは思います。

しかし、何か違和感も存在する。同じ立場に立ちつつですよ。政治家や官僚、ひのと不幸の上に自身の蓄財を決め込むことを恥ずかしいとも思わない連中を「許す」わけでもありませんし、同じ立場に立とうとも思いません。

しかし、奥歯に何が挟まったような違和感もあるんです。

んーーーー。

何といいますか、こういうだらしなさっていうのが、何かを「よくしよう」という善意の人々からすれば、「お前こそ革命の敵」だと吊し上げられるかもしれませんが、そうなんですよ。

じゃあ、どすりゃいいのって謂われると佇んでしまう訳ですが・・・。

うーむ。

原発もいやですし、TPPも問題があるし、いまの政治はうまくいっていないし、そんなものに賛成はしたくない。だけど、両義的な眼差しというものがなくなってしまうと、実際のところ、権力の立場からも、そして、何かをよくしようという立場からも、そこから「置き去り」にされる「サバルタン」を拡大再生産してしまうだけなんじゃないのかなー。




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 大災害という「事件」を時代の画期にするには「事件」がもたらした生々しい切断そのものではない。時代の切断は私たちが「事件」をそれ以前から続く「生活」との連続性において捉え直す中で自ら作り出さないかぎり、生まれない。その意味では、大災害をめぐる膨大な関連報道、深い自粛ムード、文明論の見直しを求める大上段の諸言説といった、切断を印象づける各種の喧騒にもかかわらず、そして被災地の内外を問わず、私たちは相変わらず震災前から続く問いの前にいる。どこにも便乗しない、私たち自身の「生活の復興」が求められている。
    −−湯浅誠「被災地には生活が続いている−−『復興』への視点」、内藤克人編『大震災のなかで  私たちは何をすべきか』岩波新書、2011年、221頁。

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