覚え書:「20世紀遺跡:近現代史をめぐる/26 福島県石川町・ウラン採掘場」、『毎日新聞』2012年09月19日(水)付。



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20世紀遺跡:近現代史をめぐる/26 福島県石川町・ウラン採掘場

 ◇幻の“原爆”開発
 太平洋戦争末期、アメリカは広島と長崎に原爆を投下し、非戦闘員を含む多くの人々を焼き尽くした。その蛮行は人類史に刻印されなければならない。一方で、大日本帝国も原爆開発を進めていた。福島県石川町はその最前線で、ウラン鉱石の採掘が行われていた。【栗原俊雄】

 東日本大震災で事故が起きた福島第1原発から南西におよそ60キロ。人口約1万8000人の石川町は、緑豊かなところだ。
 日本の原爆研究は1941年4月、陸軍航空技術研究所が理化学研究所理研)に委託して始まったとされる。責任者の仁科芳雄博士の頭文字をとって「ニ号研究」と呼ばれた。44年7月、マリアナ諸島サイパンアメリカに占領されたことで、軍部は開発を急いだ。
 そのためにはまず、ウラン鉱石が必要だ。石川町は、戦前から多種多様な岩石、鉱石の産地として知られていた。
 45年4月から、石川中学校(現・学法石川高校)の3年生約180人が3班に分かれ、近くの飛行場整備とウラン鉱石の採掘に動員された。元小学校校長で当時14歳だった有賀究(きわむ)さん(81)の証言によれば、シャベルやつるはしで石を取り出し、もっこで運んだ。
 「炎天下でしかも腹が減っているのに、どうしてこんなことを……」と、不満を募らせる中学生たち。あるとき、軍刀を携えた将校が来て言った。「君たちが掘った石で爆弾を作る。マッチ箱一つの大きさでニューヨークを破壊できる」。有賀さんは「半信半疑だったけれど、とにかくがんばろう、という気になった」。
 しかし、東京はマリアナ諸島を基地とする米戦略爆撃機B29の度重なる空襲で灰燼(かいじん)に帰し、陸軍や理研の研究施設も被災した。仁科は、5月には原爆製造をあきらめていたという。しかし石川町での採掘は、敗戦の8月15日まで続いた。その後、米軍が鉱石や機器を持ち去ったと、地元では伝わっている。
 ウラン採掘場は町内に6カ所あったとされる。戦後は農地造成や宅地開発が進み、採掘場の遺構が残っているのは塩ノ平地区だけだ。
 町史編纂(へんさん)専門委員の橋本悦雄さん(63)が、現場を案内してくれた。作業当時、あたりははげ山だったが、今は木々が生い茂っている。それでも、当時の写真にみえる地形ははっきりと残っていた。
 橋本さんが大きな岩に線量計をあてると、ピーピーと音を立てて反応した。今でも放射線を発しているのだ。
 原爆を作るためには、ウラン235が10キロ、必要とされた。そのためには計算上、天然ウラン約1・5トンを集めなければならない。天然ウラン自体が希少であり、この時点で極めて困難だった。さらに天然ウランからウラン235を抽出するためには膨大な設備と資金、先進的技術が必要だったが、それは日本の国力をはるかに超えていた。
 それでももし、完成していたら、日本も原爆を使用しただろうか。「そのために開発していたのですから、使っていたでしょう。できっこなかったし、できなくて良かった」。有賀さんは、そう言った。
    −−「20世紀遺跡:近現代史をめぐる/26 福島県石川町・ウラン採掘場」、『毎日新聞』2012年09月19日(水)付。

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