覚え書:「今週の本棚:鴻巣友季子・評 『世界文学を継ぐ者たち』=早川敦子・著」、『毎日新聞』2012年9月23日(日)付。



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今週の本棚:鴻巣友季子・評 『世界文学を継ぐ者たち』=早川敦子・著
 (集英社新書・798円)

 ◇五作家の「翻訳不可能性」に正面から向き合う
 「アウシュヴィッツの後に、詩を書くことは野蛮である」というアドルノの言葉は、その後もしばしば言い換えられ反復されてきた。9・11テロの後に……東日本大震災の後に……。芸術をすべて無効にしかねない出来事から、しかしまた新しい表現を生みだしてきた、生みださずにいられなかったところが、文学のしぶといところでもある(だからこそ野蛮なのだ)。
 世紀の変わり目あたりから、「世界文学」という語が一般にもよく使われるようになってきた。十九世紀前葉、ゲーテによって提唱された当時の「世界文学」とは、国語と国民文学の狭隘(きょうあい)な領域を超えて共有されるもの−−端的に言い換えれば、世界文学とは「相互翻訳による大いなる対話」であったろう。
 しかし、現在、世界文学を語るときに強く意識されるのは、「翻訳不可能性」ということだ。『世界文学を継ぐ者たち』の著者は書く。「帝国主義の残滓(ざんし)とホロコーストという(翻訳不可能性の)衝撃的な地殻変動を経験したあとの時代にあって、『世界文学』は現在まったく異なるニュアンスで語られ始めている」「進歩と啓蒙(けいもう)の理想に突き進んできたヨーロッパが、<中略>人間の理解を超える蛮行を歴史に刻んでしまった衝撃が、自らを問い直す大きな転換をもたらした」
 植民地支配で抑圧されていた「小さきものたち」の声や、ジェノサイド(大虐殺)の沈黙から生還者を通して生まれてきた言葉を伝える、新しい世界文学の担い手として、著者はホロコースト第二世代で『記憶を和解のために』の作者エヴァ・ホフマン(ポーランド出身)、第三世代のアン・マイケルズ(カナダ)、ポストコロニアル文学の旗手アルンダティ・ロイ(インド)、「パレスチナゲルニカ」を描いたとされるマフムード・ダルウィーシュ(パレスチナ)、異形の者との出会いを描いてきたデイヴィッド・アーモンド(英国)の五人に絞りこみ、深く論じていく。日本ではまだわりあい馴染(なじ)みの薄い作家たちだが、単なる未訳作家の紹介やブックガイドに留(とど)まらない。
 五人に共通するのは「他者との邂逅(かいこう)」をテーマに世界文学を切り拓(ひら)いてきたこと、彼らの小説がみな「喪失の物語」であること。マイダネクの収容所で死んだ少女が靴の中に残した詩に、深く胸をえぐられる。
 「むかしむかしのことでした。名前は小さなエルズーニャ ひとりぼっちで死にました。マイダネクは父さんの アウシュヴィッツは母さんの 命が消えた場所でした。ひとりぼっちのエルズーニャ その子も死んでゆきました。」
 ホフマンが親の世代が経験したことを咀嚼(そしゃく)し、自伝の執筆を通して「自分を翻訳」することで、「事実から寓話(ぐうわ)へ」「寓話から意識へ」「意識から物語へ」……という道のりをたどるとき、読者にとっても「彼らの物語」は「わたしたちの物語」となる。ホフマンは翻訳を「セラピー」とまで呼ぶ。
 しかしホロコーストを伝える文学が多々ある一方、祖国を喪失したユダヤ人によって国を追われたパレスチナ人の「ナクバ」(大惨事)を描く文学はあまりに少ない。そのことにも注意を向けねばならないだろう。また、「自らの再翻訳」を通して、西洋の理論には還元しがたい「他者」のありようを可視化していくことがポストコロニアル文学なのだと著者は言う。
 翻訳とその不可能性に正面から向き合った読みごたえたっぷりの世界文学論だ。翻訳不可能性を屈服させるのではなく、むしろ「頭(こうべ)を垂れて」異なるものに自らを屈服させることで、新しい世界に招き入れられた、と言う著者に敬意を抱いた。
    −−「今週の本棚:鴻巣友季子・評 『世界文学を継ぐ者たち』=早川敦子・著」、『毎日新聞』2012年9月23日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20120923ddm015070031000c.html




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世界文学を継ぐ者たち 翻訳家の窓辺から (集英社新書)
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