歴史的・政治的現実に規定されているから、つまり、現実に政治が優位してるから、政治が優位すべきであるというんじゃなくて、政治が優位してるからこそ






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 人間の価値とは本来的に政治的人間ではない。(中略)〔それゆえ、政治にかかわる決断にさいしての〕価値基準は芸術とか学問とか、つまり政治的以外の価値基準の上に立って政治的選択をして行くという、パラドクシカルなものです。その意味で、政治の優位ってのを認めない。だけど、現実にかかわっている時に、認識として学問や芸術が政治と別に存在していると思うならば、現実にとりこになっている学問や芸術を肯定することになる。それが良識的知識人の盲点だとぼくは思う。つまり、芸術の自立とか文化の自立と言うことを実体化してる、ところがそういうものはないんだよ。そういうものは基本的に歴史的・社会的制約をもってるもんだ。芸術とか学問とかいうものは、深く歴史的・政治的現実によって規定されている。歴史的・政治的現実に規定されているから、つまり、現実に政治が優位してるから、政治が優位すべきであるというんじゃなくて、政治が優位してるからこそ、まさに芸術の自立を主張しなければいけないという、その緊張関係ってものが、自分のなかに生きてなければ、政治主義になっちゃうか芸術主義になっちゃう。
    −−丸山眞男「解説対談」、『木下順二作品集』第五巻、未來社、1961年、377頁。

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丸山眞男政治学とその実践においてキー概念のひとつになるのが「アンチノミーの自覚」ではないかと思う。人間の社会性と内面性の有機的関係と現実の相関関係を無視した、無自覚な征伐主義こそ、それがどのようなものであれ、丸山が唾棄すべき対象としたものでしょう。

上の文章がその消息をわかりやすく、そしてダイレクトに語った一文ではないかと思い、紹介した次第です。

「丸山諭吉」風にいえば、これは「惑溺を排す」ことになりますが、人間の自立も、組織体としての社会の確立の、別個の理念でも存在でもありません。両者は相互に全く絶縁されたものではないけれども、一方的な「止揚」の名のもとに対立性を解消され「融和」に収斂されることには警戒的であるべきだ!

そして、外部存在的な制度論に関しても、個々人の思惟のレベルにおいても、その両者は相互に原理的に対立する二極として厳しく対置されると同時に、相互に他を前提しあい補完しあう水準に置いて捉える必要があろう。

こうした形で相互に交渉し、そのことで他方の極限を自己にとりこみ、それを内在化させ「新しい関係」を形成していかなければならない。それゆえに大切なのは、両者相互の、引く力と排斥する力からなるダイナミズムとしての緊張関係それ自体に自覚的であらねばならない。

……この主張が丸山政治学のひとつの肝になるかと思います。

この緊張性を「アンチノミーの自覚」と呼んでよいと思いますが、この「アンチノミーの自覚」の欠落ないしは無自覚こそ、歴史上の様々な政治実践における悲劇と問題の根本要因なのではないかと丸山の冷静な眼差しは見出すのであります。

確かに「人間の価値は本来的には政治的人間ではない」訳です。しかし人間は「深く歴史的・政治的現実に規定されている」。だから、単純に政治とは違う理念を持ち出しても、すでにその理念自体に「政治性」を深く刻印されていることを失念して「対」しようとするとそれは元黙阿弥に帰趨してしまう。

では、「現実に政治が優位しているから、政治が優位すべきである」というのも同時に早計であるという。

この両者に共通していることは何か。

それが「アンチノミーの自覚」の欠如という事態に他なりません。

その意味でここなんだろうなあと思います。

「政治が優位してるからこそ、まさに芸術の自立を主張しなければいけないという、その緊張関係ってものが、自分のなかに生きてなければ、政治主義になっちゃうか芸術主義になっちゃう」。

政治で全てが解決するというのもお花畑ですし、政治で全て解決しないからもう辞めたとおうのもお花畑でしょう。

選択というパラドクシカルな積み重ねは、単純化を退け、緊張関係に足をつっこんだまま、あきらめない地平において、初めて有効なものと機能すると思います。

昨今はネー。

もう、やめときましょう。








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