覚え書:「引用句辞典 不朽版 反日暴動=鹿島茂」、『毎日新聞』2012年9月26日(水)付。


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引用句辞典 不朽版
反日暴動
鹿島茂

中国が日本並みのおとなしい国になる日

 市庁舎へやってくる……今や私は目撃者だ。……彼[パリ市総監ペルチエ・ド・ソヴィニー]は尋問される。(中略)階段の踊り場にやってきたところで、せいぜい三十人ほどの一群れが囚人を連行する国民軍兵士に襲いかかり、捕虜を引き離す。彼らは捕虜をつかまえ、引きずりまわし、殴りつける。十五歳のちんぴらが街灯の鉄棒に馬乗りになって、待ちかまえていた。綱を張るのが見えた。……(中略)諸君、おお、同国人よ! その効用によっても正当化されないあの蛮行の数々を嫌悪をもって直視するがよい。あのような行為を許しうるのは必要のみだろう。だが、果たしてそれは必要だったのか。私には判断しかねることだ。
(レチフ・ド・ラ・ブルトンヌ『パリの夜 革命下の民衆』上田祐次編訳、岩波文庫

 今日では、足フェチの元祖として知られているレチフ・ド・ラ・ブルトンヌは、同時に類いまれな好奇心をもった同時代の風俗観察者であり、大革命前後のパリの街を歩きまわり、気づいたことを小まめに書き留めていた。
 一七九八年七月一四日、朝寝坊してしまったレチフが昼過ぎに家を出ると、群衆が槍の先に人間の頭を刺して更新している光景が目に飛び込んでくる。バスチーユ牢獄が襲撃され牢獄長官のロドネー侯爵が惨殺されたのだった。警察に追われることの多かった作家レチフは「私の胸は恐怖心でいっぱいになっていながら、そのくせあの恐るべき案山子[バスチーユ牢獄]が倒れようとするのを見る歓喜の情がまじっていた」と告白する。だが、革命の騒乱が拡大し、民衆たちが集団心理に駆られて残虐行為に走るのを目撃するに及んで抑えようのない嫌悪を感じるようになる。
 七月二二日、「おお、フランス人よ! おお、わがパリの同胞たちよ! いったいどんな妖怪がそのとき諸君に怨霊を吹きこんだのか」と嘆きながら、それでも好奇心に突き動かされ、レチフはパリ市総監ベルチエ・ド・ソヴィニーが民衆に捕まってこづきまわされる姿を追う。若く美しい女たちが窓から「しばり首だ!……街灯に吊しておしまい!」と叫んでいる。「その場にいあわせてはいたものの、この目で目撃しなかったこまごまとしたことは、いっさい話さないでおく。彼らがベルチエを吊し、その首を切り落とし、綱を振っていたとき、私は彼がまだ市庁舎にいるものと思っていたのである。……ふいに形相の変わった彼の首が目に入る。私は恐怖に駆られて逃げ出した」
 レチフがこれを記録してから、すでに二二〇年以上がたつ。だが、基本的になにも変わっていない。この間に、レチフが目撃したような破壊と殺戮が「革命」あるいは「愛国」という名の下に世界中でどれくらい繰り返されたことだろう。ごく普通に平和な日常生活を送っていた民衆たちが突如、狂気に駆られたように生け贄を探し、建物に放火する。ある人はこうした群衆を暴徒と呼び、またある人は革命的民衆と呼ぶが、その本質は常に同一である。飽和量に達していた集団の発火性の無意識が爆発してしまったのである。引火の原因は、憤激を誘うものであれば、ナショナリズムであっても経済的不満であっても、なんでもかまわないのである。
 問題はどのような条件下でこのような大爆発が起きるのかということだ。フランスの歴史人口学者エマニュエル・トッドによれば、人口と識字率が決定要因だという。人口爆発が起こると同時に男子の識字率が上がって若年層の生存競争が激化し、個人の不満が集団の無意識へと変化し、個人の不満が集団の無意識へと変化しているところならどこでも、国家や体制に関係なく爆発が起きるのだ。
 ただしトッド理論によれば、男子に代わって女子の識字率が伸び、女子の多くが高等教育にアクセスするような段階に達した社会においては、どんなアジテーションを行おうと爆発は起きなくなるという。いまの日本のように。
 尖閣諸島国有化をきっかけに爆発した中国の反日暴動は、中国の一人っ子政策によって生じた歪みで若年層の男子率が異常に高くなっていることに加えて、資本主義の加速で貧富の差が拡大し、都市部に貧しく若い男子が過剰につめこまれているために起きたものであり、ナショナリズムはじつはあまり関係がない。
 よって、この危機が乗り越えられれば、すでに女子が高学歴化し、少子化も加速している中国であるから、たとえば共産党政権が続いても、今後の大爆発は起きないと予想する。やがて、中国もまた少子高齢化によって日本と同じようにおとなしい国になるのである。(かしま・しげる=仏文学者)
    −−「引用句辞典 不朽版 反日暴動=鹿島茂」、『毎日新聞』2012年9月26日(水)付。

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