これらの習慣がある特定の政治権力のために奉仕するからではなく、公共福祉のすぐれた原動力たりうる健全な習慣だから


        • -

 それゆえ、教育は、児童に対して、早くから次のことを認識させねばならない。すなわち歴史によって弾劾を受け、今日もなお受けつつある因襲的、人為的な限界のほかに、われわれ各人の人間性に深く根ざした、自然的な限界が存在するということである。それは決して、運命に甘んじて忍従することをひそかに児童に強いたり、正当な野心を眠らせておくように仕向けたり、あるいは、現在の生活条件の外に目を転ずることを妨げたりすることではない。そのような企みは、われわれの社会構造の基本原理そのものと矛盾するであろう。われわれが児童に理解させねばならないのは、幸福になるための要件は、各人の能力に相応した実現可能な目標を手近なところに据え、これを達成することであって、あまりにも遠い、それゆえに決して到達し得ない目的に向かって、自らの心をいらだたせ、悩ませることではない、ということである。われわれはいつの時代にも変わることなきこの世の不正を、児童の目からおおいかくすことなく、現世のかぎりない幸福は、権力や、智力や、財力によっては得られぬことを、彼らに感得させねばならない。そして、幸福とは、様々な条件のもとで見出だしうるものだということ、われわれ各人は、喜びと悲しみとをこもごもにもちあわせるものだということ、そして大事なのは、諸個人の能力に調和しその人間性を具現できる行動目標を発見することであって、事故を酷使したり、常軌を逸した目的を無理矢理追い求めたりすることではないということ、これらのことをわれわれは児童に理解させ、感得させねばならない。これこそは、まさに学校教育が児童に植えつけねばならない心的習慣の全てである。それは、これらの習慣がある特定の政治権力のために奉仕するからではなく、公共福祉のすぐれた原動力たりうる健全な習慣だからである。
    −−エミール・デュルケム(麻生誠・山村健訳)『道徳教育論』講談社学術文庫、2010年、110―111頁。

        • -


近代における生−権力の馴育の三大本山はどこかといえば、学校、工場、軍隊。そこで国家にとって有益な「サブジェクト(subject)」が鋳造される。

学校、工場、軍隊にしても、その福祉と引替に(それも削減傾向)、近代国家に有益な人材たれ、と馴致するシステムだから、まさに人間の多様性どころか「金太郎飴」の製造に奔走することになってしまう。

運動会もひとつのちいさな軍隊だ。

日本の近代化は、それを同時期にやったから、どこもかしこも軍隊式。国旗をかかげることにも反吐が出るし、紅白の両軍の競争はまさに戦闘である。
※だからといってその脊髄反射としての「みんな平等にゴール」も糞だろう。

なので私は、運動会へはいきたくないアマノジャクなのであります。

とはいえ、「学校、爆発しろ」と19世紀式の革命家ぶってもしかたがないので、それが生−権力のトリックであるということを「自覚」して接していく他ありません。

ということで?土曜日は、小学生の息子殿の運動会。

前日に、「お父さん、来るよね?」と聴かれるので、

まあ、うえのような蘊蓄を紹介しつつ、「検討しておくw」と応えたところ、

「ということは、来ないの?」

という言語ゲームを理解していたようなので、「まあ、検討の結果、いくことになりました」ということで参加した次第です。まあ、めんどくさいお父さんですいません。

ともあれ、彼自身としては一生懸命がんばっていたようで、そして、いつもの教室の給食ではなく、家族でお弁当を囲めたことに満足していたようで、それはそれで良かったのか?ということで、「これらの習慣がある特定の政治権力のために奉仕するからではなく、公共福祉のすぐれた原動力たりうる健全な習慣だから」ということにしておきます。

ともあれ、その日は仕事もあり、運動会が済んでから出勤、そんでもって原稿仕事の山も山積しているのが、生−権力の道場としての「小学校」、「運動会」よりも問題なのかも知れません(つらい










103




道徳教育論 (講談社学術文庫)
エミール・デュルケム
講談社
売り上げランキング: 153241