覚え書:「くらしの明日 私の社会保障論 『つどい』に行けない人たち=湯浅誠」、『毎日新聞』2012年9月28日(金)付。



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くらしの明日
私の社会保障
「つどい」に行けない人たち
湯浅誠 反貧困ネットワーク事務局長

「当事者参加」をどう確保するか
 本当に子育てで大変な人は、子育て政策を考えるつどいには来られない。本当に介護に追われている人は、介護保険のあるべき姿を考えるつどいには来られない。一日のほぼすべてが、子育てや介護で占められてしまうからだ。
 子育てや介護の当事者が、身近な人のケアに追われて社会とのかかわりを築けない姿は、現象だけとらえれば、社会参加や政治参加からの「撤退」と映る。
しかし、安心して子どもやお年寄りを委ねられる子育て・介護支援があれば、つどいに参加もできるだろう。支援に向けた制度的、社会的整備が十分に追いついていないことで、肝心の当事者が「排除」されている。それを「社会的排除」と言う。
私はさまざまなつどいで話をするが、手話通訳や保育スペースが確保されているつどいはまれだ。「必要なら介護スタッフを派遣します」という用意をしているつどいは皆無と言っていい。手間とお金がかかるためだ。
 つどいを開いている人たちは、多くの場合、手弁当に近い。そこまではできない、というのが正直なところだろう。しかしそこでは、時に子育てや介護の「あるべき姿」が語られている。
 私はしばしば、奇妙な感覚に陥る。「あるべき姿」は、当事者がその場に来たくても来られないような状態に手をつけることからしか始まらないのではないのか。
十分な手間とお金をかけられないのは、今や行政も同じだ。行政も民間も手が及ばない領域に落ち込んでいる人たちがいるのであれば、それをどうすべきか、お互いの知恵を出し合うことが最初の議題になるべきだろう。「おまえのせいだ」と言っている場合ではないのではないか。


 私が気になるのは、子育てや介護に追われている人たちが来られない状態のまま行われている「あるべき姿」のつどいが、当事者からどう見えるか、ということだ。「余裕のある人間が気楽なことをいっている」と見られてしまっては、残念極まりない。一方、そのあり方が当の本人たちに「自分の方を向いてくれている」と本当に感じられるかと言えば、それも疑問だ。
 格差や貧困の拡大する社会は、さまざまな火とから社会参加や政治参加のための時間的、精神的余裕を奪っていく。多くの人が仕事と生活に追われる社会では、市民運動も民主主義も停滞する。「排除」wされ「撤退」する人たちが増える中で、いかに「参加」を確保するか。社会保障の未来は結局、その手間とお金を誰が引き受けるかにかかっていると思う。
ことば 社会的排除と包摂 失業や病気、障害、差別などで生活に困窮し、社会参加の機会から排除される(社会的排除)人々に対し、精神面も含めて包み込むような支援を行い、孤立を防ごうとする(社会的包摂)考え方。欧州で広まった概念で、日本でもさまざまな困難を抱える人の相談をワンストップで受け、支援者が寄り添いながら問題解決を目指す事業などの取り組みが始まっている。
    −−「くらしの明日 私の社会保障論 『つどい』に行けない人たち=湯浅誠」、『毎日新聞』2012年9月28日(金)付。

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