覚え書:「今週の本棚:辻原登・評 『屍者の帝国』=伊藤計劃、円城塔・著」、『毎日新聞』2012年10月7日(日)付。



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今週の本棚:辻原登・評 『屍者の帝国』=伊藤計劃円城塔・著
 ◇『屍者(ししゃ)の帝国』
 (河出書房新社・1890円)

 ◇執拗な思考が冒険活劇に絡みつく「現代の奇書」
 一八七八年ロンドン。優秀な成績でロンドン大学医学部を出た青年がある任務に就く。
 時は、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカ、そして最大の陸軍大国にのし上がったロシアが加わって「グレート・ゲーム」のまっ最中。陸軍(ランド・パワー)が最強になれば、必らず海軍(シー・パワー)の強化へと向かう。とりわけ不凍港を持たないロシアはインド洋に出ようとして、中央アジアでヨーロッパ列強と一触即発の危機にあった。これが「グレート・ゲーム」と呼ばれる戦いだ。
 <わたし>(ジョン・ワトソン)が女王陛下の諜報(ちょうほう)機関<ウォルシンガム>から命ぜられたのは、このゲームにプレーヤー(諜報員)として参加し、アフガニスタンのどこかにねじろを持つとされる「屍者の帝国」を探ることだった。
 諜報機関の責任者Mは諮問(コンサルタント)探偵(スルース)シャーロック・ホームズの兄。出だしからして人を喰(く)った設定だ。
 屍者とは何者か? ヴィクター・フランケンシュタインが怪物(クリーチャ)を創造して百年。いまや、死体に疑似霊素をインストールして生き返らせた死体ロボット=屍体が大量に生産され、3K労働や兵士として活用されている。そして、より性能の良い屍体製造をめぐって、各国は鎬(しのぎ)を削る。
 作者はここで、いわば原SFたるメアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』の続篇、というより「第二の小説」を物しようとしているのだ。
 ロシアには、すべての死者を復活させて人類を救済し、ユートピアをめざす結社があった。ロシア皇帝の暗殺を目論(もくろ)む彼らは、アフガンの深奥部コクチャ川の源流にひそんでいた。どうやらこの結社が、屍体製造の奥義書「フランケンシュタイン文献群」を保持しているらしい。結社の指導者の名前はアレクセイ・カラマーゾフ。ご存知『カラマーゾフの兄弟』の末弟アリョーシャ。
 ドストエフスキーが『カラマーゾフ』の続篇を構想していたことは知られている。そこでは、アリョーシャは皇帝暗殺者となって登場する。
 ここで、作者のさらなる野心が明らかになる。ドストエフスキーに代わって、「第二の小説」を物する。
 噂(うわさ)によると、カラマーゾフはアフガンの奥地の古い鉱山跡を巡り、選(え)りすぐりのラピスラズリを採掘して、送って来るらしい。このあたりは、コンラッドの『闇の奥』のクルツを思わせる。
 <わたし>はカラマーゾフを追い求めて、コクチャ渓谷を溯(さかのぼ)る。
 ついに<わたし>はカラマーゾフの国に入る。二人の邂逅(かいこう)の場面。
 あくまで穏やかにカラマーゾフは掌(てのひら)で椅子を示した。
「ワトソン。ジョン・ワトソン
「アレクセイ・カラマーゾフ
 わたしたちは見つめ合う。澄んだ瞳がわたしの裡(うち)を覗(のぞ)き込む。
 これらの出来事・物語を書きとめたのは<わたし>ではない。<わたし>の従者・書記フライデーだ! かつてのロビンソン・クルーソーの忠実な従者。いまは物言わぬ屍者。
 屍者は魂を持つのか?
 「グレート・ゲーム」という大冒険活劇に、魂と物質をめぐる深く鋭く、執拗(しつよう)な思考が、まるでスイカズラのようにびっしり絡みついためくるめくような小説だ。ラストで、フライデーが静かに目を開き、<ぼく>と語り出す部分は感動的ですらある。
 現代の奇書と呼んでいい。
    −−「今週の本棚:辻原登・評 『屍者の帝国』=伊藤計劃円城塔・著」、『毎日新聞』2012年10月7日(日)付。

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屍者の帝国
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