覚え書:信教の自由と現代日本,阿満利麿『宗教は国家を超えられるか』




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 近代日本が、思想信条、「信教の自由」について、どれほど強固な合意をつくってきたといえるか、もしうまくそれがつくられていないとすれば、その原因はなにか、を検討する必要がある。とりわけ「信教の自由」についての検討が重要だと私は考える。なぜなら、信仰は、いかなるものにも売り渡したり、妥協することが不可能な世界であり、しかも、その自由が奪われることは、その信仰者の死を意味するからである。もちろん、思想信条についても、同じであろう。だが、その自由がなければ死を意味するかという点で、「信教の自由」は、もっともラディカルな自由であり、人間の根元にかかわる権利といえる。
 日本人は、宗教について淡泊であるから、ということがしばしばいわれるが、それゆえに、「信教の自由」についての考察をあいまいにしておいてよいということにはならない。だいたい、日本人の宗教心が淡泊だというのは、一種の迷信なのであり、もうそろそろ、そうした偏見から抜け出てもよいのではないか。そして、近代日本における「信教の自由」がどのような運命をたどってきたかについて、正確な認識をもつことが必要ではないか。
 というのも、私の脳裏には、一九八八年九月一九日からはじまり、一九八九年一月七日にいたる、昭和天皇の重病、危篤、死去をめぐってくりひろげられた、日本社会の異様な反応、あり方が、まだ鮮明に焼きついているからである。はたして、日本社会には、思想信条の自由が、どれほどの力をもって存在していたのであろうか。「事大主義」の風潮は、柳田の期待どおり、まったくすがたを消していたのであろうか。
 読者の記憶にも新しいであろうが、天皇の容体急変以来、日本列島は、あげて「自粛」列島と化してしまった。「自粛」とは、まことにもってよくいったものだ。官憲の強制ではなく、謹慎に反すると自主的に判断された事柄が、速やかに、どんな些細なことでも中止、禁止された。
 多数の祭りや催し物が中止になったことはよく知られているが、たとえば、こんな事件もあった。ある落語家のCD、カセット・テープが発売直前に回収され、「不謹慎な」箇所がカットされたのである。カットされた部分は、五臓六腑の説明に関するくだりで、「いまはやりの天皇陛下膵臓というのは、これに入っておりませんがね云々」という話であった。会社は、時期が時期だけに「とがめる方の耳にはいるとまずいという意見が内部に出たため」、カットにふみきったという(一九八八年一二月一三日付、朝日新聞朝刊)。また、スーパーの店頭から「赤飯」が姿を消したり、ある私鉄では駅員や乗務員のネクタイを紺系統に統一した(中島三千男『天皇の代替りと国民』)。
 もちろんこうした自粛ムードに危機感をいだいた人々が、天皇報道のあり方や今こそ天皇制を考えるべきだとして、街頭行動に出ることもあったが、そのデモの参加者に、お前たちは日本人ではない、日本から出てゆけ、と野次る通行人も少なくなかったという。また、天皇の戦争責任を追及する大学人や、長崎市長が右翼の襲撃を受けたのも、この時期であった。
 こうした状況をふりかえると、長いものには巻かれろ、ではなく、自分の自主的な判断で行動すること、自分と意見はちがっても、その人を追放したり、抹殺しようとするのではなく、その人の存在をまず認めること、そうしたことが実現していたとは、残念ながらいうことはできない。いまもって「事大主義」は、健在なのである。
 「自粛」列島のもとでは、官憲による露骨な弾圧や人命を奪うということはなかった。だが、国家のイデオロギーと異なる思想、信条、信仰をもっていたがために、苛烈な弾圧や拷問、はては死を招くにいたる事件、たとえば共産党の弾圧、大本教の弾圧などが、一九二〇年代から三〇年代にわたって日本列島にあったことを思い起こす必要がある。
 言論の自由謳歌しているように見える現在の日本であるが、「言論の自由」が、もともと権力批判の自由であることを自覚している人が、マスコミ人のなかでもどれだけいるかは心もとないし、まして「信教の自由」になると、裁判官のなかでも、その本質を理解している人は、きわめて少数だという印象を禁じえない。
 どうして、このような状況が生じたのであろうか。問題は、やはり、近代の天皇制国家の歩みのなかにあるように思う。あらためて、近代日本における「信教の自由」の足跡をたどり、そこに未解決のままに残された課題がなんであったかを確認したい。そうすることが、文化の多元性に根ざした新しい共同体をつくる条件を引き出す、一つの試みになると考える。
    −−阿満利麿『宗教は国家を超えられるか 近代日本の検証』ちくま学芸文庫、2005年、190−193頁。

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