西洋におけるヒューマニズムの源泉となったギリシア哲学においては知性も或る直観的なものであった
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西洋におけるヒューマニズムの源泉となったギリシア哲学においては知性も或る直観的なものであった。直観的な知性を認めるのでなければプラトンの哲学は理解されないであろう。ルネサンスのヒューマニズムにおいても同様である。デカルトは近代の合理主義の根源といわれるが、彼においても知性は一種の直観だったのであり、直観の知的性質を明らかにしようとする現代の現象学はデカルトを祖としている。正しいものと間違ったもの、善いものと悪いものとを直観的に識別する良識 bon sens というのも出かるとの理性 raison といったものから出ていると見ることができる。知性と直観とを合理的なものと非合理的なものとして粗野に対立させることは啓蒙思想の偏見であり、この偏見を去って直観の知的性質を理解することが大切である。しかし今日特に重要な問題はデカルト的直観でなくむしろ行為的直観である。行為的直観の論理的性質が明らかにされると共に人間というものの実在性が示されねばならぬ。近代のヒューマニズムは個人主義であることと関連して人間を単に主観的なものにしてしまった。新しいヒューマニズムは行為の立場に立ち、従って人間をその身体性から抽象することなく、そしてつねに環境においてあるものと見ることから出立して、人間の実在性を示すことができる。しかるに身体性の問題はパトスの問題である。パトスは普通いうように単に主観的なものでなく、それなしには人間の実在性も考えられないようなものである。
−−三木清「新しい知性」、『哲学ノート』新潮文庫、昭和三十二年、16ー17頁。
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単純に主観と客観を対立させ、主観なるものを恣意的なもの、そして客観なるものを厳正な立場と割り切ることは、哲学的思索とは無縁なものではあるまいか。
ちょうど、今日の授業ではソクラテス・プラトンの前史となるソフィストあたりのお話しをしましたものですから、そう思わざるを得ないと感じます。
そのように単純な二元論として人間の営みとしての主観的なるもののと、その成果としての客観的なるものを割り切ることこそソフィスト的立場であり、ソクラテスやプラトンといった西洋哲学の源流とは無縁なものであろう。
冒頭にはそうした消息を物語る三木清の文章を紹介しましたが、最終的にはイデア論というひとつの「試論」へ行き着くプラトンにしても、その探究の出発は、直観的な知性から。
行為的直観から出発する知的格闘が、挑戦と応戦を経て、論理的性質が鍛えられ、ひとつの合理的な考え方へと精錬されていく。
このことを失念してはならないだろう。
さて、そんな話をしながら、帰りのバスで久しぶりにF先生と同道しましたので、そのままかるくいっぱい。
学問の話をできることほどうれしいことはありませんね。