覚え書:「引用句辞典 不朽版 いじめ=鹿島茂」、『毎日新聞』2012年10月24日(水)付。




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引用句辞典 不朽版 いじめ
鹿島茂

「仲良し」の産物という悲しい逆説をどうするか


 日本人は、子ども時代には特権を与えられ、心理的には気楽な気持ちでいられる。そのような経験をしているだけに、少年期以降のありとあらゆるしつけを経たあとも、依然として、「恥を知らなかった」ころの気楽な人生の記憶が残る。日本人は、将来の天国を思い描く必要はない。なぜなら、それは過去にすでに経験しているからである。(中略)やがて、六歳か七歳を過ぎると、用心深く振る舞うことと「恥を知ること」の責任を負わされる。それを支えているのは、責任を果たさなければ家族から白眼視されるという強力な拘束力である。(中略)子ども時代の後期になると、個人的な満足のうち、あきらめろと命じられるものが多くなる。だが、見返りが約束される。それは「世間」に認められ、受け入れられるということである。(中略)子どもはその後の一生を通じて、のけ者にされることを、暴力をふるわれること以上に恐れる。(ルース・ベネディクト菊と刀』 角田安正訳 光文社古典新訳文庫

 田中真紀子氏が文部科学相に就任してから早一カ月。役人も(そして国民も)田中大臣がとんでもないことを言い出すのではないかと戦々恐々としていたが、いまのところ軋轢は伝わってきていない。「子ども時代には特権を与えられ」て、我がままいっぱいに育てられた田中大臣もマスコミという「世間」の拘束を受け入れて、衝動を抑えつける術を学んだのだろうか?
 冗談はさておき、田中大臣と文科省が真っ先に取り組まなければならない喫緊の課題は、「いじめ」であろう。大臣は学校で一度も「いじめられっ子」になった経験のない強いお方のようなので想像力が働かないだろうが、現代日本のいじめ問題は思っているよりもはるかに深刻でえあり、大臣が役人を怒鳴りつけただけで収束するとは思えない。
 ではなにゆえに日本のいじめは深刻なのだろうか? それは「構造的」だからである。つまり、いじめは日本人の精神構造にビルト・インされているので、退治しようとしても消滅することはありえないのであえる。
 それを教えてくれるのが日本人論の古典『菊と刀』。著者のベネディクトは一度も日本に滞在したことがないのに、対日占領政策を模索していた国務省の依頼に応えて、この不朽の名著を短期間で書き上げた。『菊と刀』で問題として設定されたのは、欧米人から臆病に見える日本人がときとして大胆で無謀な行動に出るのはなぜかという謎で、ベネディクトはこれを解くカギを、日本人の子どもが体験する「しつけの劇的転換」に求めた。
 すなわち、日本人は欧米と比べると子どものころ「最大の自由」を与えられ、甘やかされて育つが、小学校入学前後から、まず親から「世間」の笑い者にならない行動を取るようにしつけられる。次いでこの「世間」という目に見えない拘束は、学校という名の相互監視的社会へと移されて、子どもを日本的な倫理体系のうちに組み込んでいったが、その「世間」がないところ、たとえば外国や占領地、あるいは捕虜収容所では、相互監視が働かないから、思いもかけぬ大胆な振る舞いに出たのである。
 戦後、親が子どもを「世間から笑われる」と言ってしつけることはなくなった。また、学校も修身を課目から外すことで、しつけ教育の役割を放棄した。にもかかわらず、がっこおうは「世間」の代わりとして機能しつづけた。相互監視の村社会は学校というトポスで生き延びて、きつい縛りで日本人の子どもを拘束しつづけている。
 現在、反いじめキャンペーンは暴力や恐喝という刑事事件的なことにのみ限定されているが、いじめの第一歩は、その対象者をクラスないしは友達グループという「世間」から「のけ者にする」ことにある。なぜなら、日本人はベネディクトの指摘するように「のけ者にされることを、暴力をふるわれること以上に恐れる」からだ。これだけは、戦後七十年近く経過したいまも変わっていない。だから、文科省がきれいごとに終始して「みんな仲良く」といった標語を掲げれば掲げるほど、「いじめ」は逆にはびこるという悪循環に陥る。なぜなら、「仲良し」のメンバーは「のけ者にされることを、暴力をふるわれること以上に恐れる」ので、自分が排除されるくらいなら他のメンバーを犠牲に差し出そうとするからだ。つまり「仲良しグループ」はなにかのきっかけで相互密告社会へと変質し、和を乱すメンバーがいれば、即座に排除の論理を始動させるのである。
 いじめは「仲良し」から生まれる。日本の悲しいパラドックスというほかない。(かしま・しげる=仏文学者)
    −−「引用句辞典 不朽版 いじめ=鹿島茂」、『毎日新聞』2012年10月24日(水)付。

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