覚え書:「今週の本棚:本村凌二・評 『カエサル 上・下』=エイドリアン・ゴールズワーシー著」、『毎日新聞』2012年12月09日(日)付。




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今週の本棚:本村凌二・評 『カエサル 上・下』=エイドリアン・ゴールズワーシー著
 (白水社・各4620円)

 ◇人間を鋭く洞察した“傑物”の実像

 ローマ人の格言に「幸運の女神は強者を助ける」というのがある。その裏返しに「なにもせずにただ祈るばかりの者たちを、幸運ははねつける」とも忠告する。これらの文言をカエサルほどあざやかに演じてみせた男はいないのではないだろうか。とはいえ、みずから幸運児と称したカエサルだが、失敗も少なくなかった。

 カエサルには生涯にわたって悩まされつづけた醜聞がある。十代のころ最初の海外勤務地アナトリアで、保護国の国王と同性愛関係にあるという噂(うわさ)が広まった。ギリシャ文化を尊重したローマ人も同性愛だけはひどく嫌悪していた。だから、花を摘まれた若者とは軟弱きわまる笑い草だった。噂の真相は今さらわかりようもない。だが、若きカエサルが、奇抜な服装と過剰な自負心のせいで、かなり嫌われ者だったことは示唆してあまりある。

 前62年、執政官に次ぐ公職(法務官)にあるとき、無鉄砲で名高いネポスという護民官を熱心に支持した。ネポスはそのころの暴動事件の主犯格と疑われていたが、偉大な軍人ポンペイウスの義弟でもあった。カエサルにすれば縁故のないポンペイウスの支援を得るつもりだったのかもしれない。だが、状況を見誤り、行き過ぎてしまった。元老院カエサルの解任を決議する。当初は白(しら)を切り通そうとしたが、ほどなく自宅に引きこもり引退の姿勢を見せた。そこで民衆が集結しカエサル支援の大声を上げる。仕組まれた芝居だったかもしれないが、元老院はやむなくカエサルの解任を取り消した。

 政略のみならず軍事行動でも苦杯は重なる。ガリア人との戦いのなかでも名高い大一番アレシア攻囲戦の前の出来事。敵の勇将ウェルキンゲトリクスの軍団を欺き、まさしく罠(わな)にはめようという矢先だった。敵と味方との異同を見誤ったローマ軍が大混乱に陥る。このために最前線で指揮をとる百人隊長が46名も戦死してしまう。この敗戦後、カエサルは兵士の勇敢さを讃(たた)えつつ、規律の欠如を叱責した。それとともに、敗因の分析を披歴しながら、ガリア人の戦闘力とは無関係だとも付け加えることを忘れなかった。

 英雄カエサルといえども、いくどとなく誤認も挫折も経験している。だが、そのたびに、彼は自分の犯した間違いを理解する能力ももっていた。さらにまた、劣勢にめげず巻き返すだけの才覚にも恵まれていた。

 ところで、なによりも注目されるのは、カエサルが人間の世界にひときわ鋭い洞察力をもっていたことである。人間というものは、現実そのものよりもそうあってほしいと願うことを信じやすい。カエサルはそのことを熟知していた。

 ときとして彼は民衆の願望どおりに演出してみせる。功利的で慎重な同世代のキケロなら気前のいい浪費家など理解しがたかったにちがいない。だが、カエサルは、借財をいとわず大盤振る舞いするし、それを恩にきせない大らかさもあった。

 前44年、カエサルはローマの貴族たちの雰囲気を読み誤っていたのかもしれない。警告していた占い師を「3月15日が来たぞ」と笑いとばすと、「まだ3月15日は過ぎ去っていません」と言われた。その直後、暗殺の刃(やいば)がふりかかった。

 聖徳太子源義経のように、カエサルも数知れず重なる伝説に覆われている。それらを剥がしていくと、確たる真実は意外と少ないのだ。それにもかかわらず、本書はその成功話も失敗話もふくめて、歴史上の傑物の実像に迫り、好感がもてる。もともと古代の軍事史を専門とする著者ならでは、人間の裏を読む術にはたけているようだ。(宮坂渉訳)
    −−「今週の本棚:本村凌二・評 『カエサル 上・下』=エイドリアン・ゴールズワーシー著」、『毎日新聞』2012年12月09日(日)付。

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