教会と信仰生活を日常のものとして生活し、大事に実践されていた。けれども、決して聖書の句を引くとか、まじめくさった難しい話はされない。


        • -

 先生は終生、本郷教会の会員であられました。教会を本当に大切にされました。私によく、「君は教会に行きますか」とお聞きになった。「いいえ」と言うと、「そうですか、それはやっぱり教会へ行く方がいいですね」と御忠言をされた。それも「行きたまえ」というような乱暴な言葉はひとつも出てこない。先生は社会問題や政治問題には狂奔したけれど、信仰とか教会とかはあんまりやらなかったんじゃないかと思っている人は多いかと思います。けれども私は、長い間いつでもこのことを人々に言ってまいりました。人を強制することはしない。けれども、自分はちゃんと教会を大事にし、海老名先生を助けてずっとこられたということ。それから、聖書をいつでも愛読の書におあげになりました。非常に読書力のある人で、高等学校の時に近松とか西鶴というものをほとんど読んだという伝えがあります。小説家になろうと思ったという位であります。だから、決して堅苦しい所謂教会の信者のような妙なにおいが全然無い方であった。こういうことも私におっしゃった。「ヨハン・セバスチャン・バッハのメモに、宗教音楽・カンタータの作曲を依頼されるのは嫌だと書いてあるものがあるよ」と。「あれだけ沢山カンタータを作って?」「いや、それは君、そういう意味じゃないんだよ。」カルビン派の教会がカンタータをやたらに頼んでくる。あのカルビン派というのは堅苦しい。私はそのはしくれですけど。ルター派の教会が頼むのは愉快で言い。「こういうことを彼は考えたんだそうだ、面白いことだねえ」と、こういう面白いことも教えてくれる。だから、「ハイデルベルヒのいばりくさった大学とか哲学者の道とは何だい」、と言われたのがわかるような気がするのであります。教会でも平素でも、本当に信仰を持って暮すということがどんなに大切であるかということを、先生は身をもって私に示して下すったのであります。私が一生の研究のテーマとしました「教会と国家」というのは、吉野先生が私に「こういうことを勉強したらどうだ。外国では政治学じゃ殊に大きなテーマだが、日本ではやる人がほとんどいない。だから君、やれ」と、「やってくれませんか」というような言い方で「やれ」と。私はそれを本当に有難く思っておりましたら、先生があくる日、ジョン・ネビル・フイッギスの“ Churcues in the modern state” 「この本をまず読んでみたらどうですかね」と言われた。私はそれを本当に熟読というか愛読いたしました。それが私の生涯のひとつの道標となって今日になっております。今でこそ、宗教とか、教会と国家ということを論ずる人がかれこれ出ました。宮田光雄君、或は北海道の深瀬忠一君、或は学習院の飯坂良明君、皆私の所におった諸君ですが皆立派な仕事をしてくれております。こういうことを、吉野先生は最初にお勧め下すった方でありました。
 当時社会的キリスト教という運動が始まりました時に、「先生、あれはどういうもんでしょう!」「うん、中島重君などが一生懸命やっているが、僕にはよくわかりません」とおっしゃいました。吉野先生こそ社会的キリスト教の旗振りじゃないかと思うような人が沢山いたと思います。「僕にはよくわかりません。あれは信仰の世界のことでしょうか。あれはひとつの倫理運動みたいなことになりやしませんかね」とおっしゃった。そして、横を向いたようにして笑って、「あれでやるとね、堀君、さだめし小キリストが沢山できることでしょうね」と言うて、これは先生の鋭い皮肉であった。先生は、終生、或る意味で本当にオーソドクシカリィに教会人でおありになった。教会と信仰生活を日常のものとして生活し、大事に実践されていた。けれども、決して聖書の句を引くとか、まじめくさった難しい話はされない。けれども、そこにやっぱり先生の本質がおありになった、ということを、私はいつまでも語り伝えなきゃならんような、何か責任みたいなものを感じております。勿論、私の見た先生であります。私は本当に先生にお世話になり、先生がいらっしゃらなければ、私は今はありえなかったのですから、或は盲になってべたほめに先生をほめたかも知れません。けれども、いくら私がそうでないようでありたいということを考えて、控えめ、控えめに表現してみても、やっぱり先生は、私にとって、私が今拙ない乱暴な言葉で申し上げたような、吉野先生でありました。
堀豊彦「吉野作造先生と私」、東京大学学生基督教青年会編『吉野作造先生 五十周年記念会記録』東京大学学生基督教青年会、1984年、35−36頁。

        • -


近代日本のキリスト教受容の歴史をざっくり振り返ってみると、再渡来後の第一世代の担い手が武士階級によって担われたことから、倫理的受容にその特徴を見出すことができるしょう。

もちろん担い手=教会指導者たちに武士階級が多かったとはいえ、地方では、いわゆるジェントリや自作農・商工業者を中心に伝導も進みますから、一慨に「武士的」倫理主義と言い切ることはできません。

しかしながら決定的な影響を与えるのは、日清戦争後の不況です。重化学工業化へのシフトと戦後の不況は、先のジェントリや自作農、商工業者らの階級を没落させてしまいます。かわって台頭してくるのが、サラリーマンや大学生をはじめとする知識人たち。キリスト教の担い手は、武士から彼らにバトンタッチされていきます。倫理的といったものが、いわば修養倫理的なものに洗練されてしまうとでもいえばいいでしょうか。
※ちなみに吉野作造の生家は、商家。こちらも日清戦争後の不況のあおりをもろにくらっております。

さてもう一つは、社会参画か、それとも教会形成に重点を置くのかという問題です。こちらは、キリスト教だけに限定された問題ではありません。宗教は人間の内面を耕すものであるとすれば、それが発露されていくのは必然でもあります。

啓発を受けた人間が他者へ関わっていこうとする。社会参画をそういう意義でとらえるとわかりやすいかと思いますが、それと同時に信仰の橋頭堡としての教会形成も重要になってきますが、明治後期の日本においては、後者に重点が置かれるようになってきます。

さて、明治キリスト教の形成とは、江戸時代に形成されたキリスト教邪宗門意識とどう向き合うかというのが大きな課題です。流れとしては、異教→洋教→公認教へというのが明治時代の流れだと思います。

つまり、邪宗教としての1)フルボッコ→2)欧化主義を瀬にした一時的流行→3)そして社会的地位を占める、といったところでしょうか。

しかし2)→3)の間に大きな事件が2つ起こります。1つは進化論の紹介です。文明開化と欧化主義の勢いは、西洋社会の精神的支柱としてのキリスト教に当然注目が集まるわけですが、進化論がその根拠を崩してしまいます。もう1つは内村鑑三不敬事件に見られるように、国体とキリスト教は合い合わないというものです。

これはまさに試練といってよい出来事だったと思います。

例えば、このころ、日本にはいわゆる自由主義神学が紹介されますが、教会指導者のおもだったものがこちらへ転じたり、多大な影響もうけております(なので、日本キリスト教史においては“蛇蝎”の如く扱われておりますが、正統派にみられない多様な展開と可能性を示唆しているのは事実なので全否定はできませんが、これはここでの議論ではないので、横に置きます)。

そして国体との対峙に関しては、戦う立場、矛盾しないとする立場に分かれますが、どちらかといえばやはり後者が多数を占めます。このことは、天皇への崇拝は、宗教としての崇拝ではないという棲み分け理論のようなカタチで併存されていきますが、見方をかえれば、その土地の精神風土と矛盾しない=その社会にとって悪質なものではない、という「有用論」ともなっていきます。

そして、これは大正時代になりますが、内務官僚・床次竹二郎の根回しによって、1912年「三教会同」という形で「公認」を受けることになります。三教会同とは、政府が神道、仏教、キリスト教の代表を華族会館にあつめ、宗教の意義を確認した会合ですが、ここでは、次の事柄が決議されます。

「我等は各其教義を発揮し、皇運を翼賛し国民道徳の振興を図らんことを期す」。
「我等は当局者が宗教を尊重し、政治宗教及教育の間を融和し、国運の伸長に資せられんことを望む」。

もちろん、制限された信教の自由の枠組みの中ですから、「公認」されるということは、非常に大切な策戦的アプローチだとは理解できます。しかし、社会から「公認」され「有用」であるということは、その社会に対して迎合的に振る舞わざるをえないということが必然します。そして、内村的な対決姿勢よりも、融和を選択することは、打って出るというよりも、仲間ウチを優先しようという気風ともなり、マーケットとしても既存のクラスタ……先にいったサラリーマンや学生……に専念することになります。

結果、修養倫理的な態度というものがメインストリームに位置する。もちろん、社会へ打って出ようとする社会的福音の立場も存在しますが、そうなってくると、教会自体からも「飛び出してしまう」ことが多く、場合によっては信仰すらも喪失するケースというのが多々出てきます。

もちろん、教会形成は必要ですし、社会に関わっていくことも大切ですし、問題を批判していくことも大切でしょう。しかし、このバランスをうまくとることには成功したとは言い難いのが実情ではないかと思います。

さて……。
冒頭には、クリスチャン・デモクラット吉野作造の薫陶を受けた政治学者・堀豊彦氏の回顧を掲げてみました。

吉野作造は「民本主義の旗手」と呼ばれる通り、宗教に啓発を受けた「社会派」の頭目といってよいかと思います。しかし、実際には、教会生活も大切にしていることには注目したいと思います。しかも、「宗教者然」とした態度は一切とらない。

確かに吉野作造の文章を読んでいると氏自身も「キリスト教のために」なにかをやろうとは一切思っていないし、聖書の言葉も管見ながら全く出てこない。しかしにじみ出てくる精神というものは、読み手を圧倒してくる。

だとすれば、社会派だ! 教会形成だ! という二元論をこえた、ひとつの素晴らしいお手本を、吉野作造は見せてくれているのではないだろうかと思います。

ということで、1878年明治11年)の本日(1月29日)は、吉野作造博士の135歳の誕生日です。

「霊的生物としての本来の稟質は、之に適当な機会さへ与ふれば、無限に発展向上して熄まざるものである」。人間の善性を信じたその生涯に最敬礼。







102

吉野作造評論集 (岩波文庫)

岩波書店
売り上げランキング: 450,277

日本キリスト教史物語
鈴木 範久
教文館
売り上げランキング: 964,146