覚え書:「今週の本棚:堀江敏幸・評 『ぼくは覚えている』=ジョー・ブレイナード著」、『毎日新聞』2013年02月10日(日)付。




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今週の本棚:堀江敏幸・評 『ぼくは覚えている』=ジョー・ブレイナード著
毎日新聞 2013年02月10日 東京朝刊

 (白水社・2520円)

 ◇些末な情景の反復が生む「半生のコラージュ」

 拘束が逆にかぎりない自由を生み出す。たとえば一文のはじまりを同じ文言にし、主語と動詞を変えず、あとにつづく名詞や節だけに変化を許すこと。

 美術家ジョー・ブレイナードが一九七五年、三十三歳の折に発表した『ぼくは覚えている』は、その最も印象的な事例のひとつだ。きわめて単純な構文のなかに彼は半生の断片を落とし込み、それらを一見したところ脈絡なく並置してみせた。内容的なつながりや、語から語への詩的な連想に動かされて進んで行く頁(ページ)もあるとはいえ、ひとりの人間の人生を形づくっているのは一枚の帯のような時間ではなく、途切れ途切れの、些末(さまつ)な情景の寄せ集めだと言わんばかりに。

 ぼくは覚えている。そう述べたあと、目的語にあたる器にどんな光景を添えるのか。数頁読んだだけで、ブレイナードが意識的に行おうとしている半生のコラージュの仕組みと、記憶はけっして「覚えている」ものに限定されないという事実が、ある種の痛ましさとともに理解される。記憶とは、「覚えている」と書き付けたあとで、「思い出す」ものでもあるのだ。

 実際、ここに読まれる断章群は、生々しい過去の再現ではなく、主語がかつてそのような時間を過ごした可能性を、いままさに思い出そうとしている、その過程の反復なのである。

 「ぼくは覚えている。一度だけ母が泣いたのを見たことを。そのときぼくはあんずパイを食べていた」

 「ぼくは覚えている。ボストン公立図書館で読んだすべての本の四十八ページ目を破り取ろうとして、すぐ飽きたことを」

 「ぼくは覚えている。レストランのテーブルの裏を触ってみたら、そこらじゅうにガムが貼りつけてあったことを」

 「ぼくは覚えている。ひざについた芝生のあとを」

 語り手以外の人間にはなんの意味もなさそうな情景が、少しずつ読者の身体に染み込んでくる。一九五〇年代のアメリカを支えた固有名の数々が、親しみのある常備薬みたいに効きはじめるのだ。

 同性愛者だったブレイナードの視線を明かしてくれる、性的な関心や危うい体験を語った断章も数多い。早くから自身の性向に気づき、それに忠実であろうとした彼にとって、郷里のオクラホマ州タルサという保守的な田舎町の空気は耐えがたいものだったにちがいない。

 ところで、本書のいちばん最初に掲げられているのは、次のような断片である。

 「ぼくは覚えている。封筒に『五日後下記に返送のこと』と書いてある手紙をはじめて受け取ったとき、てっきり受け取って五日後に差出人に送り返すものと思いこんだことを」

 訳注によれば、これはアメリカの書留郵便に付されている注意書きの文言で、五日とは受取人が不在の場合の留置期間を意味するという。それを過ぎると差出人に戻される決まりなのだが、この断章が幕開けに選ばれているのは、ブレイナードにとって、過去の記憶は差出人からも受取人からも離れた宙づりの「留置期間」にしか存在しないからではあるまいか。

 ただし、彼の著作は、先鋭な書式として確実に受取人のもとに届いていた。フランスの作家ジョルジュ・ペレックによる仏語版『ぼくは覚えている』を筆頭に、記憶を揺さぶり言葉を発動させるための契機として、教育の場にも影響を与えている。本書を閉じたあと、読者は自分のものではない記憶の痕(あと)がひざについているのに気づき、言葉の差出人との不意の同化を、戸惑いながら受け入れることになるだろう。(小林久美子訳)
    −−「今週の本棚:堀江敏幸・評 『ぼくは覚えている』=ジョー・ブレイナード著」、『毎日新聞』2013年02月10日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20130210ddm015070042000c.html






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