覚え書:「今週の本棚:沼野充義・評 『冷血 上・下』=高村薫・著」、『毎日新聞』2013年02月10日(日)付。




        • -

今週の本棚:沼野充義・評 『冷血 上・下』=高村薫・著
毎日新聞 2013年02月10日 東京朝刊

 (毎日新聞社・各1680円)

 ◇生と死の深みに突き刺さる超リアリズム

 『冷血』と言えば、アメリカの作家、トルーマン・カポーティの代表作として知られる「ノンフィクション・ノヴェル」、つまり実際にカンザス州のある村で起こった恐るべき殺人事件を描いた作品である。裕福な農夫の一家四人(夫婦と二人の子供)が残忍な方法で殺害され、やがて逮捕された二人組の犯人は結局、死刑を執行されるのだが、どうして彼らはそのような血も凍るような不可解な犯罪を犯すまでに至ったのか? 長年の取材を重ねて、カポーティは犯罪者の生い立ちと心理を綿密に追究した。

 高村薫の小説は、カポーティの名作を明らかに踏まえて設定を現代日本に移したもので、殺害される家族の構成や、犯人二人組の年齢などもカポーティ版『冷血』に意図的に合わせている。しかし、翻案とかリメイクといった性格のものではない。むしろ偉大な先人に対する果敢な挑戦と言うべきだろう。

 高村版『冷血』の舞台となるのは東京都北区西が丘の閑静な住宅街。時はクリスマスを間近に控えた二〇〇二年の暮れ。夫婦と一三才の娘、六才の息子の四人が無残に殺害されているのが発見される。夫婦はそろって歯科医師、二人の子供も筑波大附属に通っているという、エリートを絵に描いたような恵まれた家庭である。とはいえ、カポーティ版『冷血』の場合と同様、このような凶暴な犯行に及んだ犯人の動機がよくわからない。怨恨(えんこん)とも思えないし、金品目的とも考えにくい。素人っぽい不用心な手口のせいで、二人の犯人はすぐに逮捕され、犯行の全容は比較的簡単に明らかになるのだが、肝心の「動機」がなかなか見えてこないため、警察も検察も犯人を有罪にするためのストーリーを組み立てることに腐心する。

 などと説明してしまうと、「犯罪小説なのに、ネタバレ書評を書いていいのか?」とお叱りを受けそうだが、ご心配は無用。じつは、携帯の裏サイトの「一気ニ稼ゲマス」という書き込みで結びついた井上克美と戸田吉生(よしお)という三十代前半の二人の男たち(どちらも懲役刑の前科がある)が、車を盗んでまず郵便局のATMを襲って失敗し、つぎにけちくさいコンビニ強盗として暴れてから、最後には偶然が重なってついに裕福な歯科医師宅に押し入るという流れは、作品の第一章「事件」で最初から詳細に示されているのだ。この部分だけでも独立した現代小説としても読める出来映えで、特に一三才の娘の視点から描き出される裕福な歯科医師一家の小市民的で平和な、しかし型にはまった日常生活と、転落を続けていく二人の男たちのどこにたどり着くか分からない無軌道さの対比が見事である。

 そして小説は第二章「警察」で事件捜査の過程と犯人が逮捕されるまで、第三章「個々の生、または死」で警察や検察による取り調べから裁判、そして犯人の一人の病死、もう一人の刑死までが描かれるのだが、こちらの主役として登場するのは、高村小説でおなじみの合田雄一郎だ。現在、警視庁の「特4」(第二特殊犯捜査4係)に所属する彼は、この事件の捜査にかり出され、犯人の不可解な心理と動機に向き合うことになる。

 犯罪の事実は明らかで、逮捕された容疑者も否認していない以上、簡単な事件のようにも思えるのだが、ここで司法の制度が必要とするのは分かりやすい動機である。しかし、二人をいくら問い詰めても出てくるのは、「何となく」「勢いで」「何も考えずに」といった曖昧な説明ばかり。せめて公文書に「ほんとうのこと」を記録して欲しくないのか、と問いかける合田に対して、井上は「何がほんとうのことで、何がそうでないか、俺自身が分からない」と答えているほどだ。

 このような過程を経て見えてくるのは、じつは不条理な殺人の動機を問うことは、我々がなぜ生きているのかを問うことでもあり、生も死も分かりやすい定型句では決して説明できないということだ。合田は考える−−「人の死はおおよそ生と区別されて死になるだけで、少しも絶対的なものではない」。そして殺人犯から驚くべき生への希求がほとばしる−−「子どもを二人も殺した私ですが、生きよ、生きよという声が聞こえるのです」。

 こういった生と死をめぐる哲学的なドラマの背景となっているのが、自動車や、スロットマシンや、歯科医学に関する超リアルとも言うべき緻密な調査と描写である。逆に言えば、この超リアリズムという人並み外れた技に支えられてこそ、高村文学の哲学論が空転しないで、生と死の深みに突き刺さって行くのだろう。

 最後に見逃されがちな点を一つ指摘しておこう。「冷血」とは、カポーティの場合もそうだが、残忍な殺人犯のことだけを必ずしも指しているとは限らない。高村版『冷血』では、「骨が震えるほどの冷血」の持ち主として登場するのは、じつは殺人犯ではなく、敗血症になった殺人犯に対してあまりにも冷酷な態度をとる医師のほうである。この一点をとっても、高村薫の小説世界の奥深さが分かるのではないかと思う。
    −−「今週の本棚:沼野充義・評 『冷血 上・下』=高村薫・著」、『毎日新聞』2013年02月10日(日)付。

        • -




http://mainichi.jp/feature/news/20130210ddm015070003000c.html








202

203

冷血(上)
冷血(上)
posted with amazlet at 13.02.12
高村 薫
毎日新聞社
売り上げランキング: 1,084

冷血(下)
冷血(下)
posted with amazlet at 13.02.12
高村 薫
毎日新聞社
売り上げランキング: 940