覚え書:「書評:『abさんご』 黒田夏子著 評・管啓次郎」、『読売新聞』2013年02月03日(日)付。




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『abさんご』 黒田夏子

評・管啓次郎(詩人・比較文学者・明治大教授)
成長と感情教育の歴史


 文字列の異様な現れ、異形の作品。だが一瞥してそう判断し、この話題作を敬遠してはもったいない。

 長い懐胎の期間があったに違いないが、そんな熟成のための時など存在しなかったと事もなげに思わせるみずみずしい傑作だ。

 横書き。カタカナがまったく使われない。漢字語の多くが、規則があってかなくてか、ひらがなで表記される。その効果としての区切れのつかみがたさが読みにくさと感じられても、それは見かけのことにすぎない。

 そもそも題名の「abさんご」とは何なのか。ひとりの人間が同時に2つの地点にいることはできない。aに行くかbに行くか、あるいはどちらにも行かないか。この原則に立って緩慢な成長をつづけるのが人生という「珊瑚」なのかもしれない。あるいは文章によってみずからを生み直した作者の「産後」? 三々五々小学校に通う児童の群れ? 「散語」すなわちとりとめなく書き散らされる言の葉?

 正解は知りがたいが、この小説が漠然とたどるのはひとりの女性の成長と感情教育の歴史であり、その回想は、安易に言語化されて抽き出しにしまわれがちな記憶を言語そのものの見直しによりもういちど現前させる冒険をともなっていた。

 漢字を習得中の小学生は独特におもしろい漢字かなまじり文を書くものだが、作者のひらがな使用にはそんな気配が感じられる。ひらがなの使い方そのものが言語習得の歴史をそのつどその場でたどり直させ、いくつもの年齢段階を同一の文に書き込む結果につながっている。

 そして「傘」や「家」の代わりに「天からふるものをしのぐどうぐ」という言い方を開発するとき、作者は再び彼女にとっての世界の始まりに立つ。それは再発見だが、元々の発見が忘れられた後の再発見。そこにむかって持続する意志こそ、この緻密な作品にみなぎる力の秘密なのだろう。

 ◇くろだ・なつこ=1937年、東京生まれ。小説家。「abさんご」で第148回芥川賞を史上最高齢受賞。

 文芸春秋 1200円
    −−「書評:『abさんご』 黒田夏子著 評・管啓次郎」、『読売新聞』2013年02月03日(日)付。

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http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20130205-OYT8T01064.htm








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