覚え書:「今週の本棚:池澤夏樹・評 『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』=文・池上正樹、文・写真・加藤順子」、『毎日新聞』2013年03月10日(日)付。




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今週の本棚:池澤夏樹・評 『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』=文・池上正樹、文・写真・加藤順子
毎日新聞 2013年03月10日 東京朝刊



 (青志社・1575円)

 ◇悲劇は人間的な意味を持ち得たか

 宮城県の大川小学校。

 二年前、津波で百八名の生徒のうちの七十四名が犠牲になった。学校の管理下にあって、教師の指示のもとにみんなで避難して、避難しきれなかった。

 石巻の市街地から北東の方角へ十六キロ。北上川本流が太平洋に注ぐ河口から四キロばかり上流の、堤防から二百メートルほどのところにある。あった。

 学校建築としてなかなか凝った建物である。津波に襲われた上で焼けた(しかし学校管理下の子供たちを一人も亡くさなかった)石巻市内の門脇(かどのわき)小学校の四角い校舎と比べると、円弧を基本とした大川小学校のデザインには、子供たちに気持ちのいい空間を与えようという設計者の意志が見える。

 あの日の午後、地震の後で大川小学校の生徒たちは校舎を出て校庭に集まった。東北の海沿いの地で地震があればまず津波の襲来を考える。土地に根付いた常識と言っていい。

 「大川小学校の体育館脇には、誰でも登れる山があり、シイタケ栽培などで、子どもたちが日常的に登っていた。あの日、私たちの多くは、津波が来ても、あの山があるから大丈夫だろうと考えていました。スクールバスも来ていた」と子を失った父母の一人は言う。

 時間の猶予は五十分あった。その間に子供たちの間から「山さ逃げよう」という声が上がったという証言がある。しかし教師たちはそれを聞き流し、(おそらく)判断停止のまま校庭で待機を続け、ようやく北上川の堤防の脇にある「三角地帯」に避難という方針を出して生徒たちを動かしたが、それは津波襲来の一分前だった。公式にはそういうことになっている。

 運命の悲劇だったかもしれない。しかし悲劇は検証されてこそ人間的な意味を持つ。当事者の責任の追及ではなく、その時にそこで何が起こったかを解明して、同じことが繰り返されないよう教訓を得る。

 東日本大震災は多くのことを我々に教えた。その一つが、自然は人間社会の倫理的に弱いところを突いてくるということだ。福島第一原発の崩壊と事後はその典型である。大川小学校についても同じことが言えるらしい。

 その時に何が起こったのか、解明が進まない。子を失った父母のために説明会が開かれるが、肝心のところがわからない。生き残った子供たち相手の聞き取り調査は不充分で、メモは廃棄されたという。

 「通常業務の中のメモじゃないんですよね。(児童が)74人死んでいる報告−−調査書ですよね。それを捨てるというのは、公務員としてはどうなんですか?」という問いに「それに対しては、大変申し訳なかったと思っています。この前も謝りました」という答え。

 二人のジャーナリストが足繁く現地に通い、人々の話を聞き、公文書の開示を請求し、官僚機構の霧に隠された五十一分を解明しようとした。充分に整理されたとは言えない取材の記録だが、それでも謎の輪郭は見える。

 教育委員会はひたすら逃げ、ただ一人生き残った教師は今も病院に籠もって証言をしないという。

 対照的に岩手県釜石市の事例が思い起こされる。普段から津波避難の訓練を重ね、学校にいた小学生と中学生計二千九百二十一名に犠牲者を出さなかった。「率先避難者たれ」というスローガンを周知徹底、主体的な避難を促した。子供や教師を指示待ち状態に閉じ込めなかった。
    −−「今週の本棚:池澤夏樹・評 『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』=文・池上正樹、文・写真・加藤順子」、『毎日新聞』2013年03月10日(日)付。

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