覚え書:「引用句辞典 トレンド編 『理解されない!』という嘆息=鹿島茂」、『毎日新聞』2013年04月27日(土)付。

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引用句辞典 トレンド編
「理解されない!」という嘆息
鹿島茂

円滑に社会動かす妥協的システム


 「理解されない!」という嘆息から、人は悲痛感に似た誇りを感じている。もし実に理解されてみよ。君のあらゆる価値と実質とが、カケネなしに計算され、白昼に曝された時を考えてみよ! だれが自ら、自分の財産を登録して、貧しさに倦厭たらずに居られるぁ? 理解されない故に、人はいつも自誇して居り、天才の悲痛感に酔って居られる。
 「私は理解されない!」
 この嘆息こそが、その反対を願う意志からでなく、一も言われたことがあるか?
萩原朔太郎『虚妄の正義』講談社文芸文庫

 夕方、オフィス街近くにある居酒屋に足を運んでサラリーマンたちの会話に耳を傾けてみよう。各人の会話を一言でようやくすれば、朔太郎が右に掲げる「私は理解されない!」ということになる。年功序列の賃金ほどこの慨嘆の格好の標的となるものはないのだ。
 また、イタリアンやフレンチのランチタイムでおしゃべりに興じているマダムあるいはマドモワゼルたちの「セックス・アンド・ザ・シティ」的女子会トークを盗み聞きしてみよう。これまた「私は理解されない!」に要約されてしまう。銀座や新宿の文壇バーもまたしかり。「理解されない故に、人はいつも自誇して居り、天才の悲痛感に酔って居られる」のである。
 では、神が彼らの願望をすべてかなえ、各人が「完全に理解されるシステム」を創ったとしたらどうだろう? この世から「理解されない天才」や「実力がありながら不遇なサラリーマン」や「献身しながら報いられない妻」や「魅力がありながら男たちから放っておかれる独身美女」はすべて消え、自己の赤裸々な姿を直視して絶望に沈むレ・ミゼラブル(惨めな人々)だけが取り残されることになるだろう。
 これは、やはり人間の社会を円滑に動かすには最適なシステムとはいえない。各人のよい部分ばかりか悪い部分も完全に理解されてしまうことはメリットよりもデメリットをもたらすことが多いのだ。
 そこで知恵ある先人たちは「きわめてアバウトにしか理解されない」がゆえに、絶望ではなく、「自己満足と不満の絶妙なブレンド」が与えられるような妥協的システムを構築することにしたのである。
 年功序列はその最たるものだ。給料が貢献度ではなく年齢によって上がっていくというのはまことに理不尽な制度である。そのため、社員の貢献度を数値化して賃金に連動させようという努力がなされたが、そうなると、低評価の社員がヤル気を失うという事態が生まれた。年功序列なら、少なくとも、酒場で「おれは理解されていない」という憤懣をぶつけて怪気炎をあげることができたのに、である。
 これと同じなのが、物書き業界の四〇〇字詰め原稿用紙いくらの原稿料と画家業界の「号当たりいくら」のシステムである。本来なら、書かれている内容や描かれている内容によって作家や画家は評価されるべきだが、それを採用したのでは、「私の評価はこんなに低いはずがない」と怒り出す作家や画家たちばかりなって、大混乱が起きること必定である。
 そして、最後に、じつは、結婚制度というものも、これと似たようなシステムで運用されているのではなかろうか? 完璧な相互理解の後に結婚するのなら誰も結婚しないだろう。また完璧に理解されてしまった結婚というのはむしろ地獄ではあるまいか?
(かしま・しげる=仏文学者)
    −−「引用句辞典 トレンド編 『理解されない!』という嘆息=鹿島茂」、『毎日新聞』2013年04月27日(土)付。

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