覚え書:「今週の本棚:加藤陽子・評 『経済の未来−世界をその幻惑から解くために』=ジャン=ピエール・デュピュイ著」、『毎日新聞』2013年06月02日(日)付。




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今週の本棚:加藤陽子・評 『経済の未来−世界をその幻惑から解くために』=ジャン=ピエール・デュピュイ著
毎日新聞 2013年06月02日 東京朝刊


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 (以文社・3150円)

 ◇現代人の「安全装置」への思い込みを突き崩す

 怒っている人は子供っぽく見える。だがそれは、普通の人が怒った場合に限られることを、この本を読んで思い知った。現代フランスの誇る正真正銘の知識人が怒って一書をものした時、その書は痛快を通り越して、読み手に深い感動を与えるものとなる。フランスの思想家が、なぜ江戸前の啖呵(たんか)を切っているのだろうと錯覚させる、テンポのよい訳文は、訳者の森元庸介氏の功績に帰せられる。

 フランスの名門校として知られるエコール・ポリテクニク(国立理工科学校)で長らく経済学を教え、現在はアメリカのスタンフォード大学で哲学を講ずる著者デュピュイは、ある日キレる。それは、2011年のノーベル経済学賞に輝いたアメリカのクリストファー・シムズトーマス・サージェントが、口々に「ユーロ圏の公的債務危機を解決するなんてお茶の子さいさいです。少なくとも経済学の視点からすればね。ただ、政治が躓(つまず)きの石になっているんですよ」、「経済理論から見れば、ヨーロッパやユーロをめぐって新しい問題などないと言いたいですけどね」と述べたのを耳にした瞬間だった。

 本書は、危機への処方箋が書けるのは経済学だけであり、市場のみが審判を下しうると考えがちな現代人の思い込みを、古今の西欧哲学を総動員しつつ、全力で突き崩しにかかる闘争の書にほかならない。著者はまず、近代社会において、経済という考え方が生み出された必然性を述べるため、人間社会にとって究極の「悪」とは何かの考察に読者を誘う。原爆投下やホロコーストを想起すれば、巨大な悪は悪意のまったき不在を通じても起こりうるとわかる。そのような悪の解決は宗教の審級に委ねるしかないが、近代社会は宗教を公的な場から除くことで成立しえた。そこで、近代にあって宗教に代替する安全装置として期待されたものこそ、経済にほかならなかった。だが、安全装置としての経済も、2008年の世界金融危機を契機に、自失に陥った。

 では、どうすればよいのか。著者は、「破局」としての未来イメージを社会の構成員がその両肩に担いつつ共有することで、破局の回避を窺(うかが)うしかないとする。これは、ウルリッヒ・ベックが『ユーロ消滅?』(岩波書店)で述べていたこと、すなわち、地球規模のカタストロフィーの予感が広く共有されることで、国境を越えた新たな責任の共同体の成立可能性は高く保たれる、との論に通ずる。

 ただ、デュピュイの真骨頂は、「破局」としての未来イメージの内容を選択する、政治という行為の意味を大きくとらえる点にある。

 今後、成長とエコロジーの選択、原発の存廃、憲法改正の是非を鋭く問われるはずの我々にとって、本書のうちで最も参考となる部分を挙げておく。選択につきものの罠(わな)に陥ってはならないと著者はいう。では、罠とは何かを例で見よう。敵に囲まれたある民主国家において、現時点で占領中の国外領土を返還するか否かの政治論議があるとする。この占領地は戦時にはまちがいなく勝利に寄与する場所となる。他方、この占領地を返還すれば戦争の可能性は減少するはずだがその可能性は確実とはいえない。この場合、占領維持派が優勢となるのは、人間の脳が、見せかけの「確実」性や頻度に反応しやすくできているからだという。いかなる未来を招来できるかは、選択肢をいかに書くかにかかっている。まさに政治の役割は大きく、選択する我々の責務は重い。(森元庸介訳)
    −−「今週の本棚:加藤陽子・評 『経済の未来−世界をその幻惑から解くために』=ジャン=ピエール・デュピュイ著」、『毎日新聞』2013年06月02日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20130602ddm015070018000c.html


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経済の未来: 世界をその幻惑から解くために
ジャン=ピエール・デュピュイ
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