覚え書:「今週の本棚:池澤夏樹・評 『「昭和」を送る』=中井久夫・著」、『毎日新聞』2013年06月09日(日)付。




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今週の本棚:池澤夏樹・評 『「昭和」を送る』=中井久夫・著
毎日新聞 2013年06月09日 東京朝刊

 (みすず書房・3150円)

 ◇人間観察から思索へと導く臨床“試論”集

 精神医学と人間を巡るエッセーを集めた一冊。

 エッセーは随筆と同じと思われがちだが、フランス語の語源に戻ればエッセーは「試みること」だ。身辺雑記ではなく「試論」。あるテーマについて主題を立てて思索を展開してみる。

 精神医学の臨床医として長らく患者を診てきた著者が、人間観察を通じて見つけたこと、知見と仮説をエッセーとして書く。だから見た目の割に中身はずっしりと重い。

 今、たいていの人は生きるための思考の枠組みとして科学を採用している。科学をまったく無視した生きかたはまず考えられない。しかし、言うまでもなく科学は万能ではない。我々は生きる日々を主観として受け取るが、科学はそれを客観として見よと教える。そこに隙間(すきま)がある。

 医学者は正にその隙間を引き受ける。人間の身体は自然科学の規則に従うマシンであるはずなのに常にそれを逸脱する。教科書と目前の症例が噛(か)み合わない。

 まして著者は精神科医だ。心の病気を科学として捕らえようとしてもすり抜けるものが多い。永遠の真理なのか、一回限りの事象なのか。治療は効いたのか、治ったのは偶然か。

 そういう臨床例の話がまずあって、その先で話題はさまざまに広がる。その一つ一つが背筋を伸ばして読むに価する。人間について知らぬことを教えられ、時にはちょっと挑発される。

 症例がおもしろいのは、我々が、自分でも他人でも、一人一人の人間をストーリーとしてとらえるからだろう。こういうことをしてこうなった、と言われると納得する。ストーリーを共有できることを親しい仲と言うのではないか(国と国の場合だって同じことで、だからストーリー=ヒストリーの共有が隣国との友好には大事なのだ)。

 大人になってから発症した無辜(むこ)梅毒の患者がいた。梅毒は抗生物質の普及以降は珍しい病気になったから医者たちが気づかなかったらしい。第四期になると精神の荒廃を伴う。

 この患者に対して標準的な療法は通用しなかった。そこで中井医師はヒデルギンとルシドリールという二つの薬を処方してみた。これは「パスカルの賭け」つまり「ダメでもともと」だったそうだ。これが医者自身が「わが目を信じられなかった」というほど効いた。

 薬の宣伝ではない。患者と医者と薬、組合せの妙ということらしい。こんなのが科学と人間の関係、医学というフィールドで起こっていることなのだろう。

 次にこのストーリーは医師自身の身体に舞台を移す。ご本人が脳梗塞(こうそく)を起こした後、目まいの症状が残った。対応策として前記の二つの薬の服用を続けることにした。前立腺のガンの摘出手術で服用を止めたら、術後目まいが戻った。微量のヒデルギンで見事に止まった。他の患者の例が二つ続く。

 ああ、我々は今、こういう身体感によって生きているのだと一種の感慨を持って読んだ。脳の中で起こっていることをああかこうかと推測する。薬は多くを試して効くものを見つけ出す。厳密な科学と経験蓄積。しかし身体も精神も謎に満ちている。よい医者は大胆であり、細心であり、なによりも謙虚だ。

 本のタイトル、「『昭和』を送る−−ひととしての昭和天皇」は一九八九年の九月に書かれている。大喪(たいそう)の礼から七か月後だ。

 昭和九年に生まれて同時代を生きてきた自分の人生と精神科医から見た洞察を重ねて、昭和天皇を巡る精神史を明らかにする。戦争責任を考えれば、人々の間で時に天皇は「よい陛下」と「わるい陛下」に分裂していたと言う。これは父親の場合によく起こることで、そうでもしないと子供は父を受け止められないのだ。

 その一方、天皇本人は「責任を負わされて、しかも、自由裁量性が全然ないというのは、たいへん精神衛生に悪い」。その自衛策としてか、知的離脱を身に着けた。「新宿御苑園遊会のテレビに見るように周囲に懸命に応対されつつ、もう一人の陛下は、そういうおのれを微苦笑とともに眺めておられたような気がしてならない」というのは当たっているだろう。

 この論について著者はまた、敬愛する師、「私の世代からみれば、保守的な愛国者でもある」土居健郎が書かせたと言う。「私は弁護者の立場に徹してそれを書いた」と。

 この論でいちばん大事なのは四半世紀前の時点で今上(きんじょう)ならびに皇后の性格を正しく評価していた点ではないだろうか。「明仁天皇はおのれの個人的勇気が利用されるだけに終わることを、かなり露骨に嫌悪されるのではないか」という推理は爾来(じらい)何度か実証されたように思う。

 それはそれとして、本書の中でぼくが読んで最もおもしろかったのは「笑いの生物学を試みる」以下の三本の論文、最も科学に近い分野の試論だった。

 とりわけ、思春期論には瞠目(どうもく)した。心の変化、身体の異変、その相互作用をこれほど端的かつ正確に書いた文章を他に知らない。体験の裏打ちがまたその信頼性を高めている。
    −−「今週の本棚:池澤夏樹・評 『「昭和」を送る』=中井久夫・著」、『毎日新聞』2013年06月09日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20130609ddm015070034000c.html


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