覚え書:「今週の本棚:辻原登・評 『露出せよ、と現代文明は言う』=立木康介・著」、『毎日新聞』2014年01月26日(日)付。



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今週の本棚:辻原登・評 『露出せよ、と現代文明は言う』=立木康介・著
毎日新聞 2014年01月26日 東京朝刊

 (河出書房新社・2520円)

 ◇現代にあらがう「心の闇」への崇高な冒険

 DVDで小津の「東京物語」や黒澤の「七人の侍」、ヒチコックの「疑惑の影」をみる。おかしい、どこか違う。フィルムの光と影の戯れが消えている。尾道港の突堤に映る灯籠(とうろう)の影はもはや影ではない。侍を濡(ぬ)らす土砂降りの雨はもう雨ではない。CDでベートーヴェンの「五番」を聴く。何という鮮明さか! それはもう音楽ではない。映画からも音楽からも、いまや曖昧な部分とノイズはカットされる。

 この本は、人間の「こころ」について真摯(しんし)に粘り強く語ろうとする少壮・気鋭の精神分析家の手になるもので、端的に言えば、「こころ」のDVD化、CD化への警鐘に他ならない。この四半世紀で猛烈な勢いで進行しているのは、「エビデンス(科学的証拠)の光」が及ばない領域、つまりわれわれの「こころ」からの闇の部分・無意識のカットである。

 「こころ」は意識と無意識の領野をあわせ持つ。意識は「こころ」のいわば海面に露出した氷山の一角に過ぎず、無意識は海中に没している。無意識の広大な領野は古来、神々の領域だった。われわれは祈りによってこれを神々に預けてきた。近代人は神々を追放して、おっかなびっくりではあったが、無意識の領野も自分が支配できるものとした。それを内面と名付け、個の中に秘め隠してきた。秘密だからこそ告白も懺悔(ざんげ)も有効だったし、一篇の小説ともなった。

 フロイトによれば、無意識は抑圧されたもの(、、、、、、、)である。しかし、おそらくここには遺伝や歴史・伝統といった共同体の記憶も含まれるだろう。

 著者は、一九八〇年代終わりに起きた宮崎勤の事件、一九九七年の「酒鬼薔薇(さかきばら)」事件、二〇〇八年の秋葉原事件を取り上げる。マスメディアは彼らの「心の闇」の解明を求め、まるでそれによって犯罪予防の効果があるかのようにふるまう。

 「サカキバラと名乗った少年の問題はどこにあったのだろうか−−「心の闇」が存在していることにではなく、それがむしろ存在していない(、、、、、、、)ことにでなかったとしたら。(略)少年は、残念ながら、心の闇をつくり損なったのだ」

 心の闇をつくるのは抑圧(、、)である。「子供がひとりの主体になるのは抑圧を通じてだ」。大人だってそうだ。大体、ものを考えるということ自体が抑圧(、、)という心的作業ではないだろうか。しかし、いまや抑圧(、、)は邪魔物として排除され、資本と科学テクノロジーの光によって暗がりから明るみへともたらされ、もたらされたものはカネに換算される。

 人間は生物学的身体とエロース的身体の二つの身体により成り立つ。エロース的身体は抑圧によって形成される。フロイトは抑圧の中心に性欲を据えたが、それに限らないだろう。獣性、憎悪……、さまざまなものを抑圧することで「身体は人間化される」。著者は、精神(心)はエロース的身体(セクシュアリティ)にこそ宿る、と述べる。笑いや怒りといった情動、感情表現もエロース的身体から生まれる。中心にあるのは言語だ。

 抑圧機能の役割を担う「父なるもの」の撤退。アメリカを中心とする現代精神医療は、その診断マニュアル「DSM」から「無意識」を追放した。薬で治せる。

 パソコン、スマートフォンのどこに「心の闇」があるだろう。どこに私の記憶(、、、、)があるだろう。しかし、われわれはもうその中でしかものを考えられないのである。鮮やかなタペストリーがどれほどの分厚い裏地(無意識)に支えられているかなど、もはや誰も顧みない。

 精神分析のたいまつを掲げつづけることは、いまやドン・キホーテ的崇高な冒険を意味する。
    −−「今週の本棚:辻原登・評 『露出せよ、と現代文明は言う』=立木康介・著」、『毎日新聞』2014年01月26日(日)付。

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http://mainichi.jp/shimen/news/20140126ddm015070025000c.html








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