覚え書:「記者の目:英国という監視社会=小倉孝保(欧州総局・ロンドン)」、『毎日新聞』2014年02月14日(金)付。


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記者の目:英国という監視社会=小倉孝保(欧州総局・ロンドン)
毎日新聞 2014年02月14日 東京朝刊

(写真キャプション)記念館になっている旧政府暗号学校。暗号解読に使用された機器が展示されている=英ブレッチェリーで2014年2月4日午前10時、小倉孝保撮影

 ◇日本の未来への警告

 英国民の反応に戸惑いを覚えている。元米中央情報局(CIA)職員、エドワード・スノーデン被告(30)が暴いた通信傍受活動への反応である。情報機関が市民の通信を傍受していたにもかかわらず、市民や政治家の反応が抑制的だ。監視に慣らされた社会の危うさをみる気がしている。

 スノーデン被告の秘密文書によると、米国家安全保障局(NSA)と英政府通信本部(GCHQ)は、電話やインターネットでのやりとりを傍受し互いの情報を共有していた。傍受対象は外国政府やテロ容疑者だけでなく一般国民にまで及んでいた。

 昨年6月以降、こうした活動が暴かれ、米国やドイツでは抗議の声が上がった。英国でも世論調査では、市民の通信を傍受することに反対(45%)が賛成(41%)をわずかに上回ったが、市民の抗議行動はほとんどない。国会の議論も冷めていると思う。

 ◇政府への信頼、強い英国民

 監視社会への警告を続ける英非政府組織「ビッグ・ブラザー・ウオッチ」のピクルス代表(29)は言う。「英国民には政府に裏切られた記憶が薄い。政府はそれほど悪いことをしないと国民は思っている」。米国民はウォーターゲート事件(1972年)のような政権によるスキャンダル、ドイツ国民はナチスや旧東独政府による市民監視の経験を覚えている。それが監視への嫌悪感になっているのに対し、英国民には政府を信頼する気持ちが強いという。

 英映画「007」のジェームズ・ボンドが英雄視されているように、英国民には自国の秘密情報(スパイ)活動を誇る気持ちがある。第二次世界大戦(39−45年)では、GCHQの前身である政府暗号学校がナチスの暗号を解読して勝利に貢献した。旧政府暗号学校は今、記念館として公開され、当時の機器やアイゼンハワー連合国遠征軍最高司令官(後の米大統領)の感謝の言葉も紹介されている。国民は現在の平和、繁栄の基礎に政府の情報傍受活動があると思っている。

 ただ、外国政府の暗号解読と市民監視は別問題のはずだ。なのに市民の反発が低い理由について、GCHQに関する著書もある英ウォリック大のアルドリッチ教授(52)は「国民の多くが自分は悪いことをしていないから大丈夫と、政府による監視をおおむね了解している」と話す。

 英国民は以前から、政府の市民監視を広く受け入れている。それを示す例が監視カメラだ。56年に設置され70−80年代、アイルランド共和軍(IRA)のテロ脅威が増すに伴い飛躍的に増加。今では、学校の更衣室やトイレを含め全国で590万台が設置されている。ピクルス氏は、「短期的には犯罪防止の長所はある。ただ、犯罪の度にさらにカメラが必要になり、プライバシー侵害が進む」と警告する。

 ◇道徳的コスト、市民の負担に

 アルドリッチ教授も政府の監視が市民の利益になるには、システムが正確に動くことが前提と言い、独自に把握したある例を紹介した。

 20代の英女性が80年代、フランスから帰国するフェリーに乗ろうとした。出航を待っているとき、見ず知らずの北アイルランド市民と話した。その中に英情報機関が追跡するIRAメンバーがいて、情報機関が撮った写真に彼女が写っていた。政府は彼女をIRAに関係ある人物としてブラックリストに載せた。2年後、彼女は公務員の職を希望したが拒否されたという。

 彼女は公務員だった父のつてを使い「拒否」の理由を調べ、IRA関係者と間違われているとわかった。教授は「情報機関の情報は事実ではなく、事実を推測する材料に過ぎない。監視活動を受け入れるなら、それに伴う道徳的コストを市民が負うことになる」と警告する。行き過ぎた監視社会では自分の被る不利益にさえ気付かない。運良く不利益に気付いても、確認する手段がないため利益回復を求めることは不可能だ。

 監視社会は劇薬のようなものだと思う。治安維持などで一時的な効果は期待できるが、効果を維持するにはさらに強い薬が必要になり、それに慣れることでプライバシー侵害による不利益に無神経になっていく。監視社会という点で日本はまだ、英国ほど「劇薬」にまみれていない。ただ、特定秘密保護法が成立し今後、政府の秘密情報活動をチェックしづらくなる危険がある。政府が秘密裏に市民監視を強化しても、確認することが難しくなる。監視に慣れるのは健康な社会ではない。英国を「他山の石」とすべきだと思う。
    −−「記者の目:英国という監視社会=小倉孝保(欧州総局・ロンドン)」、『毎日新聞』2014年02月14日(金)付。

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