覚え書:「ヒバクシャ広島/長崎:’14冬/1〜5」、『毎日新聞』2014年02月18日(火)〜22日(土)付、まとめ。

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ヒバクシャ広島/長崎:’14冬/1 「死の灰」教訓、世界へ 第五福竜丸元乗組員・大石又七さん
毎日新聞 2014年02月18日 東京朝刊

(写真キャプション)「ビキニは今につながっています」と訴える第五福竜丸元乗組員の大石又七さん=東京都大田区で1月28日

 ◇大石又七さん(80)

 日本のマグロ漁船が米国の水爆実験による死の灰を浴びたビキニ事件は、この3月1日で発生60年を迎える。「ヒバクシャ’14冬」は、広島、長崎に続く核惨事となったこの事件に遭遇した元乗組員の被ばく被害根絶を求める魂の訴えから始めたい。

 つえをついてゆっくりと壇上に向かってから、少ししゃがれた声で中学生に語り始めた。「いい年ですが、伝えたいことがたくさんあるんです」。1月下旬、大石又七さん(80)は東京都内の学校で60年前の「死の灰」の記憶を語った。人の手に負えない核の恐怖は今も続いていると知ってほしい。「解決のすべを知らないまま、進み続けるほど恐ろしいことはありません」。穏やかな口調の中に気迫があった。

 14歳で漁師になった。20歳だった1954年1月、マグロはえ縄漁船の第五福竜丸静岡県・焼津港を出港する。3月1日、米国がマーシャル諸島ビキニ環礁で行った水爆実験の巻き添えになり、放射性物質を含む死の灰を浴びた。「味もにおいもない。雪が降るようでした」。数日後、皮膚に水ぶくれができ、髪はするっと抜けた。乗組員仲間たちと入院したが、無線長は半年後、急性放射線症のため目の前で壮絶な死を遂げた。仲間や家族の泣き声が広がる病室で怒りがこみ上げた。

 退院後に待っていたのは、いわれなき差別や偏見と、米国から払われた見舞金約190万円への理不尽なねたみだった。「人混みに隠れて暮らそう」。静岡から東京へ逃れると、大田区でクリーニング店を営み、被ばくの過去を遠ざけた。沈黙を破ったのは30年前だった。200万ドル(約7億2000万円)の見舞金で責任を曖昧にして決着を図った日米両政府、治ったと思って退院した仲間の死、忘れ去られていく事件の教訓、止まらない核開発−−。耐えられず、悔しさに突き動かされた。語り続け、講演は700回を超えた。

 「ビキニは今につながっています」。講演で繰り返してきた言葉だ。「兵器として、原発として、核は進化しました。目に見えない放射能は必ず人間の体に跳ね返る。みなさんは知らなくてはいけません」。福島の原発事故後、ようやく自分の話が理解されるようになったと感じている。

 2012年4月に脳出血で倒れた。入院とリハビリを経て講演活動を再開したが、体の一部にまひが残る。「死んでいった仲間の倍、生きさせてもらいました。足を引きずってでもやめません」。これまでに肝臓がんを患った。糖尿病や不整脈の持病も抱え、薬と車椅子が手放せない。満身創痍(そうい)で続ける講演に娘や孫が付き添うようになった。

 核をなくすためにどうしたら良いのか、講演を聴いた中学生から問われた。「人間は目先のことにとらわれ、動かされる。人間がいるうちは核は消えないんじゃないかと思うんです」と返した。ずっと考えてきたが、明確な答えを見つけられない。「これからを生きるみなさんが、何が幸せかを考えてほしい。考え続けていれば何か変わるんじゃないでしょうか」。そう続けてやさしくほほ笑んだ。

 ビキニ事件から60年になる今年の3月1日をマーシャル諸島で迎えると決めている。「元漁師で洗濯屋だったおやじ一人の声だけでは小さくてね」。同じように米国の核実験で被ばくした島民たちと共に、ビキニの教訓を世界に訴えるつもりだ。<文・山田奈緒、写真・中村藍>=つづく

    −−「ヒバクシャ広島/長崎:’14冬/1 「死の灰」教訓、世界へ 第五福竜丸元乗組員・大石又七さん」、『毎日新聞』2014年02月18日(火)付。

http://mainichi.jp/shimen/news/20140218ddm041040028000c.html

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ヒバクシャ広島/長崎:’14冬/2 原発孫子に残さず 被爆医師・肥田舜太郎さん
毎日新聞 2014年02月19日 東京朝刊

(写真キャプション)放射線被害の恐ろしさを訴え続けている被爆医師の肥田舜太郎さんは、ビキニで被ばくした米軍人も診察した=さいたま市で1月
 ◇肥田舜太郎さん(97)

 陸軍軍医として勤務していた広島で被爆し、60年以上被爆者の診察を続けてきたさいたま市の医師、肥田(ひだ)舜(しゅん)太郎(たろう)さん(97)は1月中旬、今年初めての講演に臨んだ。原爆投下直後の惨状などを手ぶりを交え約1時間半話し、放射線被害の恐ろしさを訴えた。「原爆や原発から出る放射線は目に見えない。人間は目に見えないものの脅威には鈍感になってしまう」。講演を何度も聞いてきた記者には、肥田さんの言葉の端々に焦燥感が漂っているように感じられた。

 来月で発生3年となる東京電力福島第1原発事故の後、内部被ばくに詳しい肥田さんに講演依頼が殺到した。特に幼い子どもを持つ母親たちがグループを作り、勉強会に肥田さんを招いた。「60年前の第五福竜丸事件(ビキニ事件)の後、原水爆禁止運動の発端となったのは東京都杉並区の主婦たちの活動だった。今度はあの時以上の広がりだ」。一時はそう感じたという。

 そのビキニ核実験で被ばくした元米軍消防兵の男性を肥田さんは診察したことがある。福竜丸事件の8年前、1946年に米国の原爆実験に参加した男性は、直後から体調が悪化した。慢性のリンパ浮腫が現れ、動脈硬化による症状も進んだ。男性は核実験での被ばくが原因と確信したが、米政府は因果関係を否定。裁判で争っていた男性は82年、肥田さんの診察を受けるため来日したのだった。

 病のため両膝から下を切断し、車椅子に乗って現れた男性の姿を今も鮮やかに思い出す。「米国は被ばくの被害をないものにしようとした。自国民なのに切り捨てられた彼はその犠牲者だった」。会った翌年、男性はがんで亡くなったという。

 「福竜丸以外にも数百隻の日本漁船がビキニで被ばくしたが、米国と日本は被害を福竜丸だけに限定した。たくさんの漁船員が若くしてがんなどで亡くなっている事実があるというのに」と憤る。「福島でも今、風評被害を気にして、放射線の被害はないものとされ、声を上げられない人がたくさんいると聞いている」と憤りは福島原発事故にも向かう。

 今も約5万人の福島県民が県外で避難生活を強いられる中、安倍政権は原発再稼働に前向きな姿勢を見せている。「被爆国で地震も多いこの国が、原発を五十数基もつくったことが間違いだった。もう1カ所どこかで原発事故が起きれば、日本は滅んでしまう」。肥田さんには焦りにも似た危機感がある。

 「核兵器原発も人間の知恵では制御できない恐ろしいもの。孫子のためにも、残さない努力を、運動を続けなければいけない」<文・高田房二郎、写真・竹内幹>=つづく
    −−「ヒバクシャ広島/長崎:’14冬/2 原発孫子に残さず 被爆医師・肥田舜太郎さん」、『毎日新聞』2014年02月19日(水)付。

http://mainichi.jp/shimen/news/20140219ddm012040051000c.html

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ヒバクシャ広島/長崎:’14冬/3 福島の不安に理解 元中国電力社長・白倉茂生さん
毎日新聞 2014年02月20日 東京朝刊

(写真キャプション)「今でも当時のことはあまり話したくない。ただ祈りたいと思う」と語る白倉茂生さん=広島市南区


 ◇白倉茂生さん(78)

 「震災があったから、何としてもこれだけは書き残さなければと思ってね」。元中国電力社長の白倉茂生(しらくらしげお)さん(78)=広島市南区=は、3年半ぶりに会った私に、そう切り出した。執筆したのは、自身が半世紀近く携わってきた石炭火力発電の脱硝・脱硫といった環境保全技術に関する論文だった。「エネルギーは必要なのに、東日本大震災原発は止まってしまった。自然エネルギーは量と質に問題があり、そうなると石炭しかない」。心臓弁膜症の手術を乗り越え76歳で論文を書き上げた背景には、電力会社の技術者としての自負と幼少期の戦争体験があった。

 1945年8月6日。小学4年だった白倉さんは広島県海田町の自宅にいた。窓を開け、夏休みの宿題をしていると、晴れた空に米軍機が3機、キラキラと光った。「あっ、B29が来ている」。その直後、すさまじい閃光(せんこう)に襲われた。とっさに机の下に隠れたが、爆風で窓ガラスは割れ、畳が跳ね上がった。原爆投下の瞬間だった。

 午後になると爆心地から東に十数キロ離れた海田町にも被爆した人たちが次々に逃れてきた。中には学徒動員で広島市内の工場に出ていた女学生もいた。顔は焼けただれ、ほとんど服をまとっていない状態だった。洋服屋を営んでいた父親は売り物の布を適当な長さに切り、頭が出るように穴を開け、女学生にかぶせた。白倉さんはそれを必死に手伝ったことを覚えている。

 翌7日、母と八つ上の兄と一緒に親戚を捜しに広島市の白島に向かった。市内は一面焼け野原。「当時、ピカドンと言っていてね。ただひたすら怖かった。だから戦争が終わった時、心底ホッとした。町の明かりがともっていることがどんなに幸せか実感したよ」

 原爆投下の翌日に爆心地から約2キロの白島周辺に入った白倉さんは、入市被爆をしている。このため白倉さんは3年前に、被爆者健康手帳の申請手続きをした。しかし長い歳月が経過し、証人との記憶に食い違いがあって認められなかった。

 「補償がほしかったのではなく、ただあの場にいた証しとして取得したかった」。兄ががんで亡くなったり、自身の体調が悪くなったりすると原爆の影響を考えてしまう。

 それだけに原発事故に見舞われた福島の人々の不安は理解できる。同時にエネルギーについて国民全体で考えてこなかったことも痛感した。

 「原発事故が起こったから『脱原発』と言うのではなく、国民ひとりひとりが今後のエネルギーのあり方について考え議論しなければいけない」。白倉さんは静かに語った。<文・岡崎英遠、写真・長谷川直亮>=つづく
    −−「ヒバクシャ広島/長崎:’14冬/3 福島の不安に理解 元中国電力社長・白倉茂生さん」、『毎日新聞』2014年02月20日(木)付。

http://mainichi.jp/shimen/news/20140220ddm012040047000c.htmltitle

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ヒバクシャ広島/長崎:’14冬/4 「希望の平和学」教え 高校非常勤講師・山川剛さん
毎日新聞 2014年02月21日 東京朝刊


(写真キャプション)被爆遺構として活水高内に残る旧鎮西学院中の校舎外壁の前で話す山川剛さん=長崎市の同校で13日


 ◇山川剛さん(77)

 今年1月30日、長崎市の私立女子校・活水(かっすい)高校の教室で、長崎県原爆被爆教職員の会副会長の山川剛さん(77)が授業を終えると、一人の生徒が席を立ち、隠していた花束を抱えて近づいてきた。「ありがとうございました」。9年にわたり非常勤講師を務めてきた山川さんは3月で退職する。この日は3年生への最後の授業だった。「ありがとう」。拍手に包まれた山川さんは満面に笑みを浮かべた。花束は「うれしいサプライズ」だった。

 爆心地から約500メートルの旧鎮西学院中跡に戦後建てられた活水高では、2005年度から3年生の社会科必修科目に「平和学」を導入した。その講師として、長崎の小学校で36年間教壇に立ち、被爆者として平和教育に力を注いできた山川さんが招かれたのだった。

 着任前、山川さんは長崎の高校生へのアンケート結果に衝撃を受けていた。多くの生徒が「核兵器廃絶は不可能だと思う」「戦争はなくならないと思う」と回答したのだ。「若者が将来に希望を持てるような平和教育をしてきただろうか」。反省を胸に「平和学」の取り組みが始まった。

 週2回通い5クラスの授業を受け持った。テーマは被爆の実相、原爆が製造された経緯、戦時中の日本の加害を含めた歴史認識反核運動の現状−−と多岐にわたる。01年の米軍によるアフガニスタン攻撃の際、武力行使に一人だけ反対した米国の女性議員の話などを紹介し「あなたたちもおかしいと思ったことは声を出してほしい」とも語りかけた。

 憲法9条については、他国に例のない戦争を生み出さない仕組みであることを教えた。ある生徒の問いかけに気付かされたことがある。「9条が大事なことは分かりました。でも、なんで中途半端に9番目なの?」。山川さんは「子供の素朴な疑問に、平和を学ぶ機会を与えることの重要さを感じた」と話す。

 授業後に毎回出してもらうリポートに生徒の変化が見られる。「戦争のない世界の実現は決して夢ではないと思えるようになりました」「核兵器や戦争について考えるようになりました」。山川さんは言う。「普通の生徒が長崎で原爆や平和について学び、他の地域の友人に伝える。これが平和教育の根幹。そのためにも被爆者は語り続ける必要がある」

 安倍政権下で進められる集団的自衛権容認の動きや教育改革に「戦争ができる体制作りが進められてゆく」との危機感は強い。そうした中での講師退任だが、山川さんは「希望の平和学」でまいた種は芽となり、生徒たちの中に根付いていると信じている。<文・梅田啓祐、写真・和田大典>=つづく
    −−「ヒバクシャ広島/長崎:’14冬/4 「希望の平和学」教え 高校非常勤講師・山川剛さん」、『毎日新聞』2014年02月21日(金)付。

http://mainichi.jp/shimen/news/20140221ddm012040151000c.html

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ヒバクシャ広島/長崎:’14冬/5止 米大統領訪問に期待 元長崎大学長・土山秀夫さん
毎日新聞 2014年02月22日 東京朝刊

(写真キャプション)長崎原爆資料館を訪れたケネディ駐日米大使と記念写真を撮る土山秀夫さん=2013年12月10日、山下恭二撮影

 ◇土山秀夫さん(88)

 「昨日まで街が存在していたとは思えない変わりようでした」。元長崎大学長の土山秀夫さん(88)は昨年12月10日、就任後初めて被爆地長崎を訪れたキャロライン・ケネディ駐日米大使と原爆資料館で会い、自ら体験した原爆投下直後の長崎の地獄絵を伝えた。

 原爆投下の2日前、長崎医科大(現長崎大医学部)の学生だった土山さんは母の危篤を知らされ、8月9日は母の疎開先の佐賀にいた。投下翌日の10日に戻った長崎は、緑を奪われセピア色の廃虚になっていた。担架で運ばれる人、皮膚の垂れ下がった人が行き交う中、医学生として救護活動にあたった。だが薬品は底を突き、医療器具もなく、死にいく人々を救えず自らも残留放射能被爆した。

 ケネディ米大統領の長女、ケネディ大使は20歳で初来日した際、被爆地広島を訪れ「深く心を動かされた」という。今回の長崎訪問でも、「死んでいく人の脈を握って励ますことしかできなかった」と語る土山さんに時折うなずきながら真剣にメモを取り続けた。

 土山さんは1960年、留学先の米イリノイ大学ケネディ元大統領の選挙演説を聴いている。「夢と希望を常に抱いた大統領だった」。その時の感想を伝えると、ケネディ大使は「核軍縮にチャレンジした父を誇りに思う。オバマ大統領も父の遺志を継いでおり、私は大統領を信頼しています。今日聞いた話はそのまま大統領に伝えます」と応じた。

 被爆地は、2009年のチェコプラハでの演説で「核兵器のない世界を目指す」と訴えたオバマ大統領の訪問を願っている。土山さんは「内政的に迷いもあると思うが、大統領が被爆地の声や実相に触れれば、核廃絶の道を進めるべきだと確信すると思う。被爆地にとっても励みになる」と力を込めた。

 日本政府が唯一の被爆国として核廃絶に真摯(しんし)に取り組むことを求めてきた土山さんだが、「安倍政権には核軍縮に向けてイニシアチブを取るという姿勢が感じられない」と指摘する。一方で、オバマ大統領の被爆地訪問を機に、核廃絶の動きが起きることを期待している。

 10年9月、当時のルース駐日米大使が初めて長崎を訪れた際、「被爆地の方々はオバマ大統領とその政策についてどう感じていますか」と何度も尋ねられた。土山さんは大統領が訪問の道を探っていると感じたという。そしてケネディ大使訪問については「核廃絶の問題に取り組む意欲を感じ、被爆者の気持ちも伝えられたと思う」と語る。土山さんは諦めずに夢と希望を抱いている。<文・大場伸也、写真・山下恭二>=おわり
    −−「ヒバクシャ広島/長崎:’14冬/5止 米大統領訪問に期待 元長崎大学長・土山秀夫さん」、『毎日新聞』2014年02月22日(土)付。
http://mainichi.jp/shimen/news/20140222ddm012040049000c.html

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