覚え書:「(風 サラエボから)オリンピック 踏みにじられた「連帯」の記憶 梅原季哉」、『朝日新聞』2014年03月10日(月)付。

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(風 サラエボから)オリンピック 踏みにじられた「連帯」の記憶 梅原季哉


 1984年2月、冬季五輪を控えたその地は、異例の雪不足だった。開会式前夜、やっと雪が降り出した。大雪となり、街は白く染まった。

 30年前、サラエボで五輪が開かれた。当時は連邦国家ユーゴスラビアの一角、今は独立国ボスニア・ヘルツェゴビナの首都になった街だ。

 「五輪は一大開発プロジェクトでもあった」。組織委員会の事務局長だったアフメド・カラベゴビッチさん(80)は話す。サラエボは78年、国際オリンピック委員会(IOC)アテネ総会での開催地選定で、2度目の開催をめざす札幌との決選投票の末、3票差で選ばれた。

 ボスニアは、さほどウインタースポーツが盛んでなかった。そこへ五輪を誘致した背景に、ユーゴ連邦を率いた独裁者チトーの思惑があった。多民族国家ユーゴの中でも、共和国単位でみると、特定の民族が多数を占めないのはボスニアしかない。その中心であるサラエボを、連邦統合の象徴として位置づけたのだ。

 ユーゴは社会主義国だったが、ソ連圏の軍事同盟に入らず非同盟中立を掲げていた。80年のモスクワ五輪が、ソ連アフガニスタン侵攻を非難する米国などのボイコットで国際政治に翻弄(ほんろう)された中、ユーゴが舞台なら東西対立を超越できるとの期待もあった。

 「サラエボと聞いて世界が思い浮かべるのは、第1次世界大戦の発端となったオーストリア皇太子暗殺事件。別の前向きな印象を広めたい」。地元のカラベゴビッチさんはそんな望みも抱いていた。

 温かな雰囲気の中、五輪は始まった。地元出身で女子スピードスケートの代表選手になったビビヤ・ケルラさん(54)は、開会式の朝までの大雪を、選手たちが自主的に雪かきしたのを覚えている。「みんなが家族だった」

 開会式で、鮮やかな衣装に身を包み踊った若者たちは、連邦全域から数カ月前に集められ、練習を積んだ。「連帯の雰囲気に満ちていた。民族の差はなく、みんながユーゴ人だった」。組織委の渉外接遇担当だったハイルディン・ソムンさん(76)は振り返る。「その後に起きることはだれも想像できなかった」

 だが、五輪がもたらした空気は、わずか8年で、サラエボから消え去った。旧ユーゴが崩壊していく中、ボスニアでは、セルビア人、クロアチア人、ボシュニャク(モスレム)人の3民族が、血みどろの内戦を繰り広げた。

 閉会式の舞台にもなった五輪のスケートアリーナは92年5月、セルビア人勢力の砲撃で全焼、崩壊した。「全く理解できなかった」。カラベゴビッチさんは嘆いた。アリーナはその後、再建されたが、市街地を見下ろす山の上にあったボブスレーリュージュ会場は、戦闘で破壊され、無残な姿をさらし続けている。

 そんな状況の下、ケルラさんは、今は違う国籍になってしまった五輪の仲間たちとも交流を保っている。「スポーツと政治は、何としても区別しなければいけない」

 歴史をたどれば、1936年のベルリン五輪ナチスドイツの下で開かれ、3年後に世界は大戦に突入した。1940年の東京五輪は幻に終わった。そして、今年のソチ五輪が閉幕すると、ロシアはウクライナに軍事介入した。

 ケルラさんの言葉をかみしめてほしい。ロシアのプーチン大統領に。そして、6年後に東京で五輪を開く私たち日本人も。(ヨーロッパ総局長)

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